思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「東大話法」と「東大病」をめぐっての四者会談―安冨歩さんらと。

2012-04-16 | 社会思想
撮影・大野裕子さん

昨日、東大話法と東大病をめぐり、四人で座談会をしました。
明石書店・会議室で、午後2時から7時まで休みなし。その後食事会でまた続きを(笑)
安冨歩著『原発危機と東大話法』(明石書店刊)


わたしは、
明治の近代天皇制による国家運営の基盤(欧米の強さの秘密をキリスト教=一神教に見た明治政府は、擬似的な一神教=『天皇教』をつくり、その新宗教の総本山として東京招魂社=10年後に『靖国神社』と改名を創設)について話し、それを支える大学として『東大』をつくり、特に法学部をその中心として「主権者としての天皇」を支える官吏とした・・・・・・・・
という話からはじめましたが、
この認識は、ほぼ参加者の共通理解となりました。

ちなみに、オウム真理教は、生きている人間を絶対者とする点で、天皇教(天皇現人神)と同じ構造をもつと話し、同意を得ました。

その歴史俯瞰的な話しから、
「東大話法」を生みだす「東大病」の話しになり、日本人の「東大信仰」は、多くの人々に共通するが、知的営みをパターン知と丸暗記に置く歪み(ヒステリー:一元的価値観)が、社会の歪みをもたらす深因であること、
現代社会の特徴は、「知」による支配であり、それが単なる「事実学」の所有者による支配を許す結果になること(「事実学は事実人しかつくらない」フッサール)。この意味論や本質論(○○とは何か?の探求)のない情報処理に過ぎない勉学は、全体を捉えられない人間しか生まないこと・・・などを話しました。

したがって、現代社会の病根を断つためには、【知】の捉え方を根本的にかえること(「客観知」は知の手段であり目的ではない・知の目的は「主観性の知」の拡大・深化にある)と、【教育】の改革(読み書き計算の他に、「考え・対話し・決める」ことを中心にすえる)が必要であること。これは絶対的条件。
と話を続けました。

安冨さんは、わたしの話しを受けて、
自分を含めて、東大生や東大教授(「エリート」と目される人)の多くに、何らかの広義の自閉症的あるいは仕事依存症的性格があり、そういう人物が、大きな権限を振るうのは社会にとって駄目だ、と考えている。判断はもっと健全な人がしないといけないと思う、と語りました。

その後もさまざまな話が交わされ、また、他の参加者からの貴重な発言も多々ありましたが、ここでは、個人ブログの性質上、内容には触れません。また、わたしは参議院行政監視委員会の客員調査員を務めていましたので、それに関連する話もしましたが、これも今はカットです。


ともあれ、人間の知的能力を、客観知(学)に閉じ込め、その暗記勉強に特定すれば、健全な精神が養われないのは火を見るより明らかです。受験知崇拝の社会では、数々の体験(自然体験・実験体験、文学体験・音楽体験・美術体験・・・)に基づくほんとうの知=健康な知は育ちようがありません。知と教育に対する見方・考え方(価値評価)の変更は喫緊の課題であり、これなくしては何をしても砂上の楼閣です。

最後に、
明石書店社長の石井昭男さんは、スケールの大きなとても面白い方で、食事会は大いに楽しめました。感射です。新刊本もたくさん頂いてしまいました。貴重な資料(F.アベトの写真集)もありますので、『白樺教育館』の書棚に置きます。




武田康弘


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