思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

『東京新聞』トップ記事ー尹東柱研究・楊原泰子さん(『白樺教育館』学芸員)の成果

2013-01-16 | 社会思想

以下は、白樺MLです。

みなさま

昨日今日と、詩と詩人についてやりとりしていたのとピッタリのタイミングで、
今日の『東京新聞』夕刊の一面は、治安維持法で逮捕されて獄死した(警察組織に殺された)韓国の詩人―尹東柱(ユン・ドンジュ)さんについての記事でしたが、
それは、わが白樺同人―『白樺教育館』学芸員の楊原さんの成果の紹介でした。

一面トップで詩人の話題とは、さすが『東京新聞』ですが、楊原さんの長年の地道な活動が実ったもので、すばらしい!!

いま、複写しましたので、添付します。

武田康弘

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武田様、古林様

ありがとうございます!

ヨンさま ならぬユンさまの追っかけおば(あ←トル)さん楊原です。

以前、我孫子の駅前で、取材を受けたことがある記者さんがあれ以来、毎年2月の立教での集いのお知らせを都内版に書いて下さり、当日のアンケートを見ると、多い時で40人が「東京新聞を見て参加」になっていました。

今年は下宿のことがあるので、大きな扱いになりびっくりしています。

尹東柱は朝鮮民族として暗黒の時代に、
名前を奪われ、
言葉を奪われても絶望せず、
変節も沈黙もせず、
自らが正しいと思う道を真っ直ぐに歩み、誇らしく民族の言葉で詩を書き続けました。

詩を書く営みの中で思考を重ね、普遍的な価値を問い続けていたのでしょう。

長い年月を経てもその詩の言葉は色褪せることがありません。

今、時代の記憶を運ぶ風となって私たちに大切なことを示してくれているような気がします。

少しずつでも、尹東柱の詩や生涯を通して、歴史の真実に真摯に向き合う人が静かに増えて行けば嬉しいです。

このような時代にはとても大切な存在だと思っています。

 

楊原

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武田です。

彼は、日本の国家主義=帝国主義の犠牲者です。

彼と同様に、日本人にもアジア人にも、明治政府がつくった「近代天皇制」という思想の下で抑圧され殺された人々が大勢いました。

「ポツダム宣言」受諾による敗戦は、【人権と民主主義】という人類的な普遍的をもつ原理による【国家主義】からの個々人の解放をもたらしましたが、「自由と責任の意識を育てる教育&実践で自治政治を現実のものとする」という原則が貫かれなかった為の混乱を、戦後民主主義を否定することで乗り越えようと宣言する首相が誕生する事態にまで至っています。

いよいよ安倍首相のブレーン、「反・人権宣言」の著者で国家主義者の八木秀次氏が、官邸の教育再生委員となり、テレビ出演しました。

彼ら(安倍氏、橋下氏、八木氏ら)は、今回のイジメ自殺問題への批判でも「人権」という言葉は一度も使いません。「人権という思想」には依らないという確信犯です。
このイジメ自殺問題を利用して(厳しく対応することで)国民の支持を得、そのままナショナリズム教育(「人権思想」を否定し「日本国民の常識」につくべきだと明言)へと走ります。現『日本国憲法』の全面廃棄へと一歩一歩進みます。

このような状況の中で、いま、近代日本における【社会主義】の意味と意義を再考することは、重大な意味と価値をもちます。黒岩比佐子さんの絶筆『パンとペン』(堺利彦の「売文社」の闘い)は、目を開かせてくれます。社会主義とは、教条化した理論ではなく、国家主義(帝国主義)への対抗思想だったことを知れば、その価値は計り知れない大きさをもちます。

社会主義には、徳富蘆花の君主制社会主義、有島武郎の博愛主義社会主義、仏教社会主義、キリスト教社会主義、ロマン社会主義、唯物弁証法(マルクス主義)社会主義、民主社会主義(資本主義内社会主義)と、いろいろですが、いずれも個々人の対等と自由を主張し、博愛の精神を持ち、国家主義による画一的な統制(自国主義・愛国心の強制)を批判するものでした。「国家主義vs社会主義」と捉えると分かりよいと思います。その意味では、現在の中国の共産党一党政治は、社会主義とは呼べないはずです。また、北朝鮮の世襲による権力などは論外です(わが日本も実際上は世襲です)。

国家主義者の思想に合わせて彼らの都合のよいように教育と政治を行う「悪」と闘う人間性豊かな思想を社会主義と呼べば、なるほどなるほど、とその思想と行動の意味が分かります。それにしても、わが日本の近代天皇制下のおぞましい暴力(警察・憲兵隊・軍隊)には背筋が寒くなります。「国体思想」とは実に恐ろしきもの。

旧日本軍(皇軍)の体罰→学校教育・部活における体罰は、個人の尊厳を消し、「私」からの出発=人権を否定するもので、許し難いものですが、
安倍氏や橋下氏や八木氏らの体罰批判は、それが勝つために効果がない、という無用性からの批判であり、また、日本の評判を落とすという観点からの批判にすぎません。

 

 

コメント
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