思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「天皇はのうのうと生き延びた!」 元兵士たちの憤りの声ーある証言

2018-08-16 | 社会批評

 

 1923年12月生れの関根竹治さんは、埼玉県蓮田市に生まれ育った関根家の長男でしたが、2010年8月に亡くなりました。

 農家の総本家の長男で、頭はしっかりし心も強かったですが、先祖代々の農家の後継ぎでしたから政治思想などは特になく、ふつうに保守的な人でした。政治の話、まして天皇の話などは、誰にも話したことはありませんでした。

 わたしの妻の百代は、関根竹治さんと悦さんの長女として生まれましたが(上に兄がいる)、お父さんの竹治さんから政治の話など聞いたことはないそうです。

 その関根竹治さんは、亡くなる数年前のことでしたが、お盆の時、親戚一同の前で驚くべき発言をしました。

 みなで、テレビで、終戦記念の番組を見ていたとき、わたしは、「東京裁判で東条英機ひとりが罪をかぶり絞首刑になったが、ほんとうは、戦前は主権者であり生きた神とされていた昭和天皇には一番大きな責任があるはず」と発言しましたが、親戚一同は何も言わずに黙っていました。

 その時、竹治さんは、大きな声で断固とした調子で「そうなんだ!」「わしら兵隊はみな、天皇(裕仁)は、自害するものと思っていた」「しかし、天皇は、のうのうと生き延びた!!」と言い、赤紙一枚で、無意味な戦争に行かされ、農民は、どれだけ大変な思いをしたか、を話しました。

 誰もが口を聞けませんでした。心からの声、明晰な声、揺るぎない言葉にみな黙るほかありませんでした。始めて聞く竹治さんが話す兵隊たちの思いに唖然となりました。

 自害どころか退位さえしないで、最高責任者がそのまま天皇の名で、「のうのうと生き延びた!」ことに、強い憤りをもつ竹治さんの声は、誰の耳にも真実を伝えたのでした。

 こういう事実と真実は、テレビも新聞も伝えません。わたしは、善美に憧れ、真実をもとめる恋知者(フィロソファー)として、ありのままを記します。

(写真は、在りし日の竹治さんと葬儀の日)


武田康弘

 

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