思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

日本史の大転回=後鳥羽上皇の二つの悪業vs法然・親鸞、北条政子・義時・泰時ー1

2020-10-02 | 学芸


日本
史の大転回=後鳥羽上皇の二つの悪業 vs 法然・親鸞、北条政子・義時・泰時。

後鳥羽上皇が28歳の時に私怨(女官=愛人の2名が念仏宗に帰依)より法然門下を死罪・流罪とした1207年の法難と、
後鳥羽上皇の権力欲(激しい王者意識)が起こした1221年の承久の乱の二つは、
実は一つの出来事だと気付きました。

わたしは、今年8月に親鸞の足跡を求めて38ぶりに板敷山 大覚寺に行ったとき、「後鳥羽上皇の第三皇子が云々」という寺の記述に疑問を持ち、住職の長男の板垣真澄さんに尋ねたところ、今井雅晴さんの著作を紹介されました。実証的で平明な今井さんの著作(10冊ほど)を読むことにより、法難の詳しい事実と、東国(茨城の稲田を中心とする)での親鸞の言動が分明になりました。

それが分かると、法難の14年後に起こされた後鳥羽上皇による「承久の乱」とピタリと符合することが私の中で明瞭になり、最初の謎が解けたのです。どういうことかと言うと、

当時つくられた新仏教である浄土宗の法然が書き、親鸞が広めた「悪人正機」の説は、皇族・貴族らのための旧仏教とは異なり、武士や庶民のための宗教であり、京の都で優雅に暮らす貴族らが救われるなら、彼らに命じられて人殺しをする武士たちの往生ー極楽浄土は間違いないというものです。生活苦から悪を行わざるを得ない庶民たちも同じこと。

後鳥羽上皇が「北条義時を討て!」と院宣を出し、鎌倉幕府から朝廷に権力を取り戻そうとして起こしたのが「承久の乱」ですが、
頼朝の死(1199年)後すぐに法然の念仏宗に傾倒して僧になっていた北条政子の鼓舞により東国武士たちは一つになり、この戦いに完全勝利しました。京都もそれ以西もすべて鎌倉幕府が治めるところとになり日本は新たな時代を迎え、以後650年間武家社会が続いたわけです。


この承久の乱で後鳥羽上皇と息子の順徳は島流しとなり、その地で死去しましたが(土御門は討幕に反対でしたので処分されませんでしたが自ら島流しを希望)、残る10名の息子たちは出家させられたのでした。その息子や後鳥羽上皇の家臣は親鸞に帰依して親鸞の布教を助けたのです。なんという大逆転!  親鸞より17才年上の北条政子は、親鸞と同じ法然門下でしたので(わずかに政子が早い)、ここで現実の大転回と精神の大転回が一体であったことが分かってきます。島流しが解かれ、東国(現茨城県中心)での布教をはじめた親鸞の浄土真宗開宗と後鳥羽院の息子らが親鸞の弟子となったことによる深い繋がりは、驚きのドラマです。

種々の詳しい経緯は続きとしてまた後で書きます。書かねばならぬ事実がたくさんあります。

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後鳥羽上皇の悪業=承久の乱 と 北条政子・義時・泰時 と 法然・親鸞の念仏宗。茨城における浄土真宗開宗。2


武田康弘

 

 

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