思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

もし敗戦がなければ、今日もまだ「天皇主権」で、天皇現人神の「国家神道国家」です。世界に例をみない異常な国のまま。

2021-08-16 | 芸術

 明治前半期までは国民の過半数の支持を得ていた自由民権運動は、伊藤博文、山県有朋(やまがたありとも)、桂太郎らにより明治天皇を中核とする保守政治の敵とされ、「民権運動の息の根を止める」という根絶やし戦略により潰されました。個々人の自立、一人ひとりのかけがえのない人生という考え方は後景に追いやられ、「公=天皇=国家」のためを当然とする国体思想で全国民は一つにされたのです。その意味では天皇教とは竹内芳郎(よしろう)さんの言う通り、日本的集団同調主義の別名だと考えられます。

  このような考え方は、今日の保守政治家にも引き継がれています。もし太平洋戦争による敗北がなければ、天皇教者たちによる保守政治は今日までそのまま続いていたわけですが、現代の保守主義をかかげる政治家も思想の本質は同じで【国体思想】(多様な人々の自由対話によりつくられる政治=社会契約に基づく近代民主主義を嫌い、天皇制を中心とする日本というあるべき姿の枠内に個々人を位置付かせるという国家主義。従ってその枠外の人間は非国民となる)なのです。戦前との違いはハードかソフトかだけです。

  では、明治政府作成の新興宗教と言うべき『天皇教』とはいかなるものなのか、それを「靖国神社」の理論的重鎮である小堀桂一郎さん(東京大学名誉教授)に聞いてみましょう。

 「靖國神社の誕生は、官軍(天皇側の軍)の東征軍(江戸を征伐する軍)の陣中慰霊祭からはじまったのです。 
 慶応四年(1868年)5月、まだ京都にあった新政府の行政官である太政官府からの布告で、嘉永六年(1853年)のペリー来航以来の「殉教者」の霊を祀ることが書かれています。「殉教者」とは「皇運の挽回」のために尽力した志士たちのことで、その霊魂を「合祀」するという考えです。またこの布告には、合祀されるのは、今度の兵乱のために斃れた者たちだけではなく、今後も皇室のため、すなわち国家のために身を捧げた者である、と明示されています。
   靖國神社は、陣中の一時的な招魂祭にとどまることなく、王政復古、【神武創業の昔に還る】という明治維新の精神に基づいてお社(やしろ)を建立した点に特徴があります。・・靖國神社の本殿は、あくまでも当時の官軍、つまり新政府の為に命を落とした人達をおまつりするお社である、という考えで出発したのであり、それは非常に意味のあることだと思うのです。日本の国家経営の大本は、「忠義」という徳ですが、この「忠」というのは、「私」というものを「公」(天皇)のために捧げて、ついに命までも捧げて「公」を守るという精神です。この「忠」という精神こそが日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力にあたるだろうと思います。・・その意味で靖國神社の御祭神は、国家的な立場で考えますと、やはり天皇の為に忠義を尽くして斃れた人々の霊であるということでよいと思います。」(小堀佳一郎東大教授)


 敗戦がなければ、主権者は天皇で、軍隊の統帥権も天皇で、かつ、現人神(あらひとがみ・生きている神)という『大日本帝国憲法』による政治が続いていたわけです。言葉も失うほどの異常な国家です。

 76年前の昨日、明治政府が作成した天皇制に基づく軍国主義=全体主義は、ようやく終わりましたが、裕仁の自害どころか退位さえしないという驚くべき行為により、戦前と戦後が共に昭和時代となり、憲法がコペルニクス的転回をして国民主権となった意味を曖昧化させてしまいましました。「米国マッカーサーと天皇により日本国民を支配する」という天皇家安泰と米国の利益がもたらされたのです。

 では、どうすればよいのか? 誰もが納得するであろう考えを、わたしは「明治政府がつくった天皇という記号」に書きました。ネットでも読めますので、ぜひご覧下さい。

武田康弘

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