4月6日は、イブラギモヴァ率いる新世代のキアロスクーロ・カルテット(in王子ホール)を聴いた。
モーツァルト ディベルティメント137 ベートーヴェン4番。シューベルト死と乙女。アンコールにモーツァルト デイベルティメント138
モーッアルトの凜とした美、ベートーヴェンの激しい情熱、ともに甘いロマンとは無縁の21世紀の抒情性を現す。現代を呼吸する現代の音楽。
時代楽器ではないが、ピリオド奏法というべきで、ノンビブラート。
「死と乙女」は、すべて過去の名演を忘れさせる新しいシューベルト。
物語性・文学性はなし、宗教性もなし、
ただ、音楽のイデアだけが燦然と輝く。
内容からすれば「イブラギモヴァ四重奏団」というのが正しいが、彼女が示す理念は、理性の普遍性を求めるクラシックの桎梏を越え、【人間感情の普遍性】の世界を拓く。
イギリス最良のフィロソファー・ヒュームが看破したように、原理上、感情は理性を支える基盤であり先行的である、をクラシック音楽の演奏仕方において見事に具現化しているのがアリーナ・イブラギモヴァであり、彼女の同伴者たちだ。
彼女はあるゆる面で圧倒的であり、従来のクラシックの批評を超える存在だ。
わたしは、3月25日には、ここ王子ホールで、モーツァルトヴァイオリンソナタ(ピアノは相棒のディベルギアン)全曲演奏の最終回を聴き、
3月30日には、所沢ミューズで無伴奏。バッハ、イザーイ、バルトークを聴き、
4月6日は、再び王子ホールで、弦楽四重奏を聴いた。
まず第一の彼女の特徴は、精神の自由。「唯我独り尊い」(=何者にも比べる必要のない自分の価値)という精神だ。
演奏は、自由闊達であり、濃やかで無限の色模様をもち、かつ、大胆不敵だ。
ネコ科の動物のような目と姿勢は実に魅力的。
21世紀は主観性の時代だ、とわたしは確信しているが、彼女とその同伴者たちは、時代の先頭にいる。
ただし、今日の演奏は、まだまだ「完成形」ではない。新たな世界を目がけていて、その目がけるものには脱帽だが、イブラギモヴァと他の奏者との力量の差は歴然で、彼女一人(無伴奏時の演奏)の恐るべき高みとは、明らかに次元が異なる。
わたしは、アリーナ・イブラギモヴァの示す理念と実践に共鳴する演奏者が増えることを願い、発展途上の「キアロスクーロ・カルテット」にも最大級の賛辞を呈したい。いいぞ!
武田康弘