個人としての生き方からはじまり、公共問題、世界認識、宇宙観のすべてを教示するような一神教は、いくらんでも21世紀を生き延びることができないでしょう。そういう発想は、近代以降の人間の認識の広がりと深さに見合わないもので、すでにあまりに時代錯誤というほかありません。
現代における宗教のもつ意味と役割は、通過儀礼=結婚式とか葬式、また法要などにおける「儀式」を司るものであり、あるいは、 日常生活における「習慣」、あるいは仲間としての「集まり」くらいでしょう。そういうものとしての宗教であれば、争いなど起きません。
どこかに人格をもった神が存在し・・・という類のお話は、通常の理性をもつ人にはとても信じることは出来ず、荒唐無稽というほかないです。
ハリーポッターの物語が好きな人にとっては、ハリーやハーマイオニーは、「自身の中に存在」しますし、幼い子にとってサンタクロースは「実在」します(そのように親が教えるので)が、それと同じ意味であれば神も「実在」しますが、言うまでもな く、それ以上ではありません。
もう、昔ながらの一神教は「思想疲労・制度疲労」で、現代ではその命を終えています。宗教のあまりに古典的な考え方は、すでに通用しないはずです。欧米でも額面通りのキリスト教をそのまま信じる人はかなり少数でしょう。
いまから1600年前(紀元415年)に 女性教師のヒュパティア(新プラトン派のフィロソファー・数学者・天文学者)は、キリスト教を信じないと明言したために、キリスト教徒たちに捕まり惨殺されましたが、彼女の言葉=思想は、極めて示唆に富むものです。
映画「アレクサンドリア」から
「形式を整えた宗教は、すべて人を惑わせます。最終的に自己を尊重する人は、けっして受け入れてはなりません。」
「神話、迷信、奇跡は、空想や詩として教えるべきです。それらを真実として教えるのは、とても恐ろしいことです。子どもは、いったん受け入れてしまうと、
そこから抜け出すことは容易ではないのです。そして、人は 信じ込まされたもののために戦うのです。」 (英文からの翻訳は武田)
宗教には先に書いたような意味と役割がありますから無くなることはないですが、ミニマムがよいのです。控え目であることが求められます。
人間の生き方、生の意味や価値についての探求は、主観性の学としてのフィロソフィが取り組むものですし、宇宙論は自然科学に任せるべきものですし、人類史は、実証性をもつ考古学や歴史学として取り組むべきものです。宗教が決する問題ではありません。
武田康弘