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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

チェリビダッケ指揮のブルックナー第4番祭り

2013-10-12 23:06:34 | 大学


遅い……。

……そういえば、国立大学で筆記試験の二次試験をやめて面接にしろとかいう、たぶん発案者は中学二年生であろうが、そんな案がでているという噂を聞いたのであるが、こんなのにいちいち理由をつけて反論しなければいけないところが、いまの日本のつらいところである。やめるべきなのは、センター試験の方だ。二回もペーパー試験をやる必要はないとか、湧いたことを言っている人がいるらしいが、センター試験を「ペーパー試験」と言ってしまう時点で感覚がおかしい。センター試験でエリートの質が下がりまくっているというのに、もはや日本は全員奴隷でいいということだな。企業の面接じゃあるまいし、いわゆる、プレゼン能力やコミュ力(笑)が高いやつに、どうみても知性的になにか欠けたところがあるのは、当の若者だって知っているというのに……。まあ、大の大人であるところの楽×の社長が、現在の英語教育について、「文法と翻訳に特化している、会話力、表現力といった非常に重要なものが軽視されている。」といった低レベルな意見を堂々と口に出来得てしまう状態では、入試制度をいじくってもどうにもならない。本当に必要なのは、こういう発言を完膚なきまでに批判しきる日本語の能力を高校生までに鍛えることである。

先ほど、小田島隆がツイッタ~で呟いていたけれども、面接(というより人物をみる面接)というのは、面接官自身の劣化バージョンを選びがちだというのは、確かに、面接官をいくらか経験したわたくしにおいても、実感としてあるのである。じゃあ、将来的に研究者になれるような頭脳が選べていいじゃん、ということになるであろうか。たぶんならん。性格がどこかしら研究者に似て〈変〉で、ただ違うところは勉強が出来ないという一点のみ、という……これが劣化バージョンの実態である。……ということになるのではないだろうか。面接は危険、口頭試問にしよう。……って、出来るわけないだろう。まあ、「勉強できても反抗的なやつ」の排除でしょ、上の中学二年生の目的は。

というか、もっと心配なのは、いわゆるコミュ力やら明るさやらなにやらを「勉強だけ出来る子」に機械的に対立させているような、なにか不可思議な夢のなかをさまよっている研究者というのは、案外、大学のなかにもいるという事態だ。どうせ、あきれ果てるようなチェック項目がずらりと並んだ面接シート案が出てくるに違いない。……これ以上、大学のなかに蒙昧な雰囲気を漂わせてどうするの?いまの大学がちゃらちゃらした雰囲気になってしまったのは、知識偏重主義の試験問題のせいではなく、勉強すらしていないやつが多いのと、大人の側のモラルと知性が落ちている感じがするので、心優しい若者たちが油断してくれているからである。

受験でとっても苦労したわたくしであり、受験勉強中は、文学をはやくやりたいのにこんなことでわたくしを苦労させる日本社会を心底呪詛していたが、……やはり受験勉強はちゃんとした方がいいと思う。わたくしは「信州教育」の神髄をもろに浴びて(笑)、ほとんど受験用の勉強をせずに、歌ったり描いたり作文を書いたりといった小学校時代を送ってしまったので、小さい頃から馬鹿みたいな受験勉強をした経験がない。たぶん、そういう現場では教師にせよ子供にせよたいしたことのない人物が威張り腐っているにちがいない事態は、様々な人々の受験勉強からの逃避劇の思い出を聞いてなんとなく推測がつくが、経験していないのでわからん…

とはいえ、むしろ問題は受験に対する意味づけなのではないかと思う。すなわち、問題だと思うのは、受験の成否で一生威張ったり僻んだりする人間のモラルと知性の在り方であって、それはあまりに広くかかる人間がみられるので難題のように見えるけれども、本質的にはバカの項目にそういう人間を登録するだけで済む小さな問題である。それに、受験に出てくる問題というのは、確かになかにはひどい問題もあるが、いままで多くの人々によって練られてきた文化的側面だってあるのだ。予備校や塾業界を教える側としても少なからず経験したわたくしには、それが少しわかる。それに、あまり言われないことであるが、受験勉強に、いじめや思春期の鬱病を防いでいる側面があることを軽視すべきでない(促進している面もあるんだけどな、もちろん)。われわれの社会は、コミュニケーション(笑)で物事を決めたり政府を転覆させたりするような感じにできていない。必ず、コミュニケーション能力がいじめ的に展開する。むしろそれから逃げるために、文化的な豊穣さが生じている。それがなかったら斎藤環氏がどこかで言っていたようにヤンキー的なコミュニケーションがひたすら金儲けと人を支配するために展開する世界が広がっているだけである。まあ、成金的マインドの人間が文化にかんでいるそぶりをして批評家面をすることがままあるが、そんなことは彼らが人を使うためにやっていることに過ぎないので、本質的なことじゃない。日本はたぶん、人間を文化的伝統で辛うじて支えているような国である。わたくしは、試験問題を更に高度に文化的に洗練させて行く道がかなり残されていると思う。それはセンター試験のような選択式問題じゃダメです、記述式の二次試験じゃなきゃ。まずは、簡単な問題ばかり望む受験生に媚びたりする大学側や、解けもしないのになぜか問題を批判したりする人々に、もう少しマジメになって頂くことが重要である。

よくわからなくなってきたが……、たぶん、発案者の狙いは、自分の大学に入学者を増やすことと、センター試験による、大学のランク付けである。本当にやりたいのは、学生が一点刻みで評価されるのをやめることではなくて、大学が偏差値の数値刻みで受験生に評価されるのをやめたいのだと思う。つまり殿堂入り大学とか勝ち組大学としてランク付けされたいのである。