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野のはて夕暮雲かへりて
しだいに落ちくる夕雲雀の
有心の調さへしづみゆけば
かすかに頬うつ香ひありて
夜の闇頒ちて幕くだる。
自然は地にみつ光なりや
今日はめぐりて山に入れど
見よかの大空姿優に
夜の守月姫宮をいでて
唱ふをきかずや人の子等は。
ああ君倦んずる額をあげて
不滅の生命をさとり得なば
胸うちたたいて大神には
讚美と感謝をささげてずや。
――萩原朔太郎「感謝」
若人たちをはじめとして、みんな適当に「感謝しかない」とかいうてるから、ほんとうに感謝しなきゃいけないときにどうするかわからなくなってくる可能性がある。おじさんはいうとくぞ、ほんとの感謝は一生かかるぜ。そしてミスは許されん。つまりほとんど不可能なのである。
そんなことより、若人に必要なのは苛烈な観察だ。老いて何もかもめちゃくちゃになっていっているようにみえる人が、そもそもどういう人間であるか正確に見届けて欲しいと思う。いま決断しなきゃいけないことに直結しているのだ。
昼間、大岡越前かなにかの再放送がテレビでやってたが、正義の医者か何かが、ならずものたちをやっつけるときに、自分は何者でだから今から何をします、というのを説明していた。これが必要である。これをしなくなってから気持ちわるくコミュニケーション能力とか言い出した。それが大概卑怯者の言い訳になるのは、正義の医者が正義の医者として職業人として徹底し、ならず者がならず者として徹底していないからである。泥棒をやろうとしている癖に、正義の医者ぶっているのがわれわれだ。
くずしろ氏の『永世乙女の戦い方1』を読んだら、将棋に命をかけている少女達が描かれていた。負けると死ぬ、らしいのである。オセロで妹に負けていた体たらくのわたくしとしては戦争反対といいたいところだが、そこまで頑張っているのなら良い気がする。彼らは、「棋士」と「女流棋士」の違いの争いを徹底しようとしているからだ。
そういえば、アラン・ドロンがなくなったそうであるが、基本的に、ベルモンドにしてもドロンにしてもわたくしより足が長いから大嫌いである。大河ドラマに出てくる一条天皇もおそろしく美男で大嫌いである。昨日はついに、源氏物語が執筆を開始され、献上された一条天皇が読みはじめたとたん、作者の声で現代語訳に変換されて聞こえてくるとか、この天皇は「作者の死」に反対している上にすごい能力だこりゃ、としか言いようがない。こんなひとを「人間」と認めるわけにはいかん。
一方、作者である紫式部のほうであるが、道長とのあいだに生まれた娘がすごく、――ママがかまってくれないからママの原稿を燃やすという放火魔の才能がある。これもまたすごい能力である。パパがママに献上してきた越前の高価な紙もあぶない。こんな紙も、越前のプロレタリアートによって作られたのであってみれば、紫式部がそうやすやすと階級闘争を止揚するわけにはいかない。やはり娘としては抵抗するであろう。彼女は、最高権力者とママのあいだにできた、まさに「政治と文学」の統一の権化なのである。こんなことを実現してしまったら、近代文学の立つ瀬がないではないか。