前衛運動というのはさまざまあったが、ピカソの「ゲルニカ」とマリーナ・アブラモヴィッチの「リズム0」がどちらが芸術なのか、みたいな問題は恐ろしくて建てられない。そこで、あまり議論を過剰に行わないことが習慣化しているのであり、政治的な季節になると、ちょっと芸術愛好家たちは困ってしまうのである。
小生の家にはなぜか『山口六平太』がほぼ全巻そろっているのであるが、いつ読むことになるのかわからない。ちょこちょこと読み続けているのであるが、なかなか面白くなってこない。
エイゼンシュタインの『十月』に、皇帝の寝室を冬の宮殿に乱入した革命軍の一人が見つける場面がある。皇帝の「おまる」?とかいろいろ出てきてちょっとエロティックな場面である。この映画はスターリンの意向で半分ぐらいになってしまっているらしく、どうも流れが悪い。時々過激なモンタージュがあるが、そこでもなんとなく流れが止まる感じがある。(とはいえ、わたくしが観たのは、60年代のショスタコービチの音楽付きのバージョンで、しかもこれがどかどかウルサい交響曲第12番を中心としたもので、ウルサいこと限りない。これが映像を邪魔している)
正直なところ、――『十月』には、帝政ロシアの宮殿のなかのブルジョア的なものと、労働者と軍人たちの荒れ狂うしかめ面の対立があるのであり、物語に逆らってかえって前者が美しい感じがする。モンタージュというのは、本当に新たな意味を生み出すのに適しているのか?対立がかえって深まるのではないか?という素朴な疑問が頭をかすめる。モノは本当に断片化できるか――
我々の文化は、確かに対立によって誕生する。我々が、ただ生きていてもいいじゃないか、という主張にどこか反発を覚えるのはそのせいもある。
山口六平太は、対立のなかでそれを上手いこと戦争回避をするように立ち回る人である。絶対にこういう人間はいるのであるが、こんなに有能な人はいない。むしろ、有能でない人がゆっくり人知れず行動しているのが本当のところである。最近は、特に絶滅種でもある。わたくしは、それが痛感されるから、このマンガをあんまりよみたくないのかもしれない。それに、エイゼンシュタインのえがく「おまる」がこのマンガにはない(いまのところ)。ようするに、このマンガ内での対立など、ほとんど大したことはないのである。
いくら藤村の羊羹でもおまるの中に入れてあると、少し答えます。そのおまるたると否とを問わず、むしゃむしゃ食うものに至っては非常稀有の羊羹好きでなければなりません。あれも学才があって教師には至極だが、どうも放蕩をしてと云う事になるととうてい及第はできかねます。
――漱石「文芸の哲学的基礎」