木曽町福島の興禅寺は、広い。小学校の時に、本堂を絵に描いたことを覚えている。上の勅使門は室町時代の様式らしいが、昭和二年の福島町大火で焼失したのをそっくりに復元した。
こんなぐあいから観て描いたような気がする。もっと大きく見えたはず……。ここも大火で焼失したのを昭和三〇年に復興。
興禅寺は、臨済宗妙心寺派。木曽氏の十二代目が木曽義仲の追善供養のため、荒れ果てていた寺を永享六年に再建したらしいのである。このあと、木曽氏や山村家によって庇護されてきて、義仲、木曽氏、山村家の菩提寺である。更に――、木曽踊の発祥地であり、木曽義仲像(焼けたが)体内仏、なんだかいろいろなお庭(日本一広い石庭含む)、義仲公お手植え二代目の櫻など、――参拝する人たちに押し寄せる「何だかすごいぞ」感……
そして極めつけは、
木曽義仲の墓(
「さくらちりをへたところ旭将軍の墓」
誰がうまいこといえと……。
義仲は、「判官贔屓」とか言ってその実、「うまいもんくいたい」「いばりたい」としか考えていない日本の庶民とちごうて、芭蕉とか山頭火から偏愛されるお人。特に芭蕉は、日本一の文学者のくせに、義仲の墓の横で眠りたい、とか訳のわからないことを言って、本当に義仲寺に墓がある。弟子の又玄は
「木曾殿と背中合せの寒さかな」
とか詠んでいる。素晴らしい句である。これに対して、義経ときたら
「六道の道の巷に待てよ君遅れ先立ち習いありとも」(弁慶)
「後の世もまた後の世も廻り会へ染む紫の雲の上まで」(義経)
義仲は旗挙げ八幡で兵を挙げると、はじめは北陸で食べ物がなくてうだうだしてたものの、ちょっと経つと怒濤の勢いで進撃。倶利伽羅峠の戦いでは、平家軍10万を一夜にして8万人死体にするという米軍なみの殺傷力を発揮。角に火をつけた数百頭の牛を暴走させるという中国の故事に似た有名なエピソードは嘘くさいが、海賊の端くれである平家を鳥居峠の申し子の義仲が破っただけのことである。とりあえず、漁夫の利を待つ頼朝を無視して、義仲は京都に進撃。京都の人たちは、今の東京都民なみにお目出たい輩だったので、「平家は公家化してもうだめだ、旭将軍万歳」などと、「民主は民主主義っぽくてだめだ、アベノミクス万歳」と大して変わらない論理で、山猿を歓迎してしまった。
・牛車爆走事件……平家シンパの牛車係が荒くれ牛を車に接続。馬鹿牛はそのまま爆走。義仲はびっくりして「このくるまなかなかイイずら」と手すりにつかまって大興奮。止まったら後ろからぴょんと飛び降りた。(前から降りるべきだそうだが、そんなこと知るかいな……)
・猫間殿事件……猫間殿を本当の猫だと思ってしまったお猿。猫間殿が来たので「やあよくきたにゃン。さあどうぞどうぞ、ねこまんまですにゃん」と猫間殿に食事を強要。大食いするのが「nice guy」である木曽の民とはちがい、京都の公家は一日二食だったのだ。箸が進まない猫。猿は「猫の小食とはこのことだにゃん。猫の食い残しは許さんよ。おらおらクエクエ」……。
・鼓判官事件……鼓の名手の判官が「義仲軍の狼藉何とかしろ」という法皇の伝言を伝えにきた。「君の名は。誰かにぽこぽこ打たれたの?頬をペタンペタンされたの?」とつい高度なアイロニーを放ってしまったお猿。判官は激怒して「義仲をぶち殺せ」と法皇に進言。
……こんな感じで、どうみてもお猿の面白さを理解しない京都のもやし共の怒りを買った。そのあといろいろあって、怒った義仲は、都で本格的に政権掌握のクーデターをおこす。後白河法皇軍2万を7000の義仲が破ったのである。ここで義仲、天皇になっちゃえばよかったのに。と思ってしまう、木曽人の浅はかさで、このときの恨みの買い方はものすごかった。征夷大将軍などという、「いつだよ、その役職はよ」みたいなものになったのもあかんかったのかもしれない。いまだったら、安倍首相が「いまから わたくしは 関白 を して まいります」とか言ったのと同じだ。で、左から平家、右から頼朝に囲まれた義仲の頼るものといえば、竹馬の友今井四郎兼平さんとその妹巴ちゃん(突然現れるんだよな、この女)
「おのれは、とうとう、女なれば、いづちへもゆけ。我は打死せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど、いはれん事もしかるべからず。と宣ひけれども、なほおちもゆかざりけるが、あまりに言はれ奉つて、「あっぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさして見せ奉らん。」とて、控へたるところに、武蔵国にきこえたる大力、御田八郎師重、三十騎ばかりで出で来たり。巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べ、むずと取つて引き落とし、我乗つたる鞍の前輪に押し付けてちつとも動かさず、首捻ぢ切つて捨ててんげり。
首捻ぢ切つて捨ててんげり
首捻ぢ切つて捨ててんげり
巴ちゃん、人間じゃねえな、義仲より強かっただろう……実は。
木曽殿は只一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日入相ばかりのことなるに、薄氷張つたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。今井が行方の覚束なさに振り仰ぎ給へる内甲を、三浦の石田次郎為久、追つ掛つて、よつ引いて、ひやうふつと射る。痛手なれば、真っ向を馬の頭に当てて俯し給へる処に、石田が郎等二人落ち合うて、遂に木曽殿の首をば取つてんげり。太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を挙げて「この日頃、日本国に聞こえさせ給つる木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや。」と名乗りければ、今井四郎、軍しけるがこれを聞き、「今は誰を庇はんとてか軍をもすべき。これを見給へ東国の殿原。日本一の剛の者の自害する手本。」とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。
だいたい、粟津の氷は馬の重さで割れてどないすんじゃ、木曽の氷はそんなもんじゃびくともせんわ、という、つい温暖湿潤気候の平均気温を理解できなかった木曽人の性で、最期は討ち取られてしまった義仲であった。兼平さんも立派な自害。だから、巴ちゃんを伴っておれば、石田二郎為久なんぞ、一瞬で「首ねじきってすててんげり」となるものを。
というわけで、おさるの毛をいつ毟ったのか知らないが、遺髪が上の墓にあるそうだ。ところで、そんな人間のことはどうでもいい。
この寺の境内には、「蛻庵稲荷」がある。
この「蛻庵」というのは、狐である。以下、http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/mukasibanasi.htmからの引用です。
むかしむかしキツネが坊さんに化けて、福島町の興禅寺へ来て、『どうぞ私を使ってください』と頼み込みました。あまりに頼むので、裏方を手伝ってもらうことにしました。キツネの坊さんはすぐ寺に慣れ、よく働いてくれましたので、和尚さまはすっかり気に入り、また檀家の人たちからも親しまれていました。
ある日和尚さまのお使いで飛騨の寺へ行くことになりました。
さすが、獣でもちゃんと働くやつはいいよ。
「隣村の入口にある一軒の農家では、一人の男が鉄砲の手入れをしていました。」
これは、いつもの展開ではないだろうか。
「鉄砲がきれいになり、のぞいて確かめてみるとキツネが通って行くではありませんか。おや、と思って鉄砲をはずすと、坊さんが歩いています。また鉄砲をのぞいてみるとキツネに見え、はずしてみると坊さんに見えました。『これはきっと、キツネが坊さんに化けて行くところだ』と思い、狙いを定めて鉄砲を撃つと見事に命中して、キツネはその場に倒れてしまいました。近寄ってみるとそれはキツネではなく坊さんが死んでいました。」
鉄砲を持ってるやつが必ず狐を撃ってしまうのはなぜでしょう。馬鹿なんでしょうか
「坊さんの肩には興禅寺の名がしるされた漆塗りの書状箱がかかっています。一日後に坊さんの姿はキツネに変わりました。村人たちは急いでキツネの死骸を興禅寺へ運び、和尚さまにお詫びをして埋めてもらいました。境内にある蛻庵稲荷がそれだといわれています。」
……その後、蛻庵狐の祟りで昭和二年の大火、だもんで義仲像も燃えて……、というのはわたくしの妄想である。しかし、案内板によると、ちゃんと祟りはあった。その飛騨の村が疫病で大変なことになったのである。もともとこの狐は、飛騨の殿様が可愛がっていたのだが、彼が秀吉に殺されたので、長野県に逃れてきたのであった。というワケで里帰りしたら撃ち殺されたという感じで……、こりゃたたらざるべからず。『木曽福島町史』によると、疫病はものすごく死者が続出、狐を撃った一家は悉く病に冒されたという。村民全員が興禅寺の檀家になったら一気に鎮まったらしいが……。ちなみに、蛻庵の書いたお経がこの寺には残っているらしい。そして飛騨の田中大秀(国学者で宣長の弟子ですね)が、「これは蛻庵じゃねえよ、弘法大師だろう。がんばって真似たもんだねえ」とコメントしているらしいのだ。――ここで我が四国のお大師様がでてくるとは思いませんでした。
狐に筆跡を真似られるお大師様……さすがです。
道路を挟んで動物の供養塔があった。確かに、動物ばかりの興禅寺の逸話であった。