★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

不幸とAI

2025-02-05 23:33:51 | 文学


つくづくと暇のあるままに物縫ふことを習ひければ、いとをかしげにひねり逢ひたまひければ、「いとよかめり。ことなるかほかたちなき人は、ものまめやかに習ひたるぞよき」とて、二人の婿の装束、いささかなる隙なく、かきあひ縫はせたまへば、しばしこそ物いそがしかりしか、夜も寝もねず縫はす。いささかおそき時は、「かばかりのことをだにものうげにしたまふは。何を役にせむとならむ」と、責めたまへば、うち嘆きて、「いかでなほ消えうせぬるわざもがな」と嘆く。
 三の君に御裳着せたてまつりたまひて、いたはりたまふこと限りなし。落窪の君、まして暇なく苦しきことまさる。若くめでたき人は、多くかやうのまめわざする人や少なかりけむ、あなづりやすくて、いとわびしければ、うち泣きて縫ふままに、
    世の中にいかであらじと思へどもかなはぬものは憂き身なりけり


顔がよくないひとは裁縫でもしてろと言われるひとが顔がよくなかったためしがなく、世の中実に理不尽に出来ている。「うち泣きて縫うままに」と言われては読者はもうこの人を助けようと思う。で、この次の場面で直ぐさま彼女を助ける女があらわれる。しかも彼女は「髪長くをかしげ」であって、いい姿である。で、彼女とすぐ結婚してしまう奴がいて、おそらくイケメソである。そろそろ読者は自らを省みて、

世の中にいかであらじと思へどもかなはぬものは憂き身なりけり

と思うであろう。あとは鬱憤を晴らすしかないわけだ。このあとの物語が継子いじめへの復讐譚であるにしては案外ドタバタであるのはよく知られている。人生、不幸が興奮を求める。

しかし、我々は不幸を知識で武装し、脳が一瞬幸福であると錯覚する。

授業でも話したんだが、どうしたらいいのか情報をいれながら勉強するとなぜか成長がゆっくりになってゆくことが多いのは、経験的に感じられる人間的常識なので、AIでむしろ仕事の進捗は遅れる場合も多いのも別に驚くべき事でない。我々が成長できるのは脳みそ含めた体の運動によってなんじゃないかなと思うのだ。

だいたいAIでXのプロフィールの要約なんかをやらせると、いっけん的確だが、――カントは理性を信じ平和を願いました――みたいな、科白がでてくる。客観というのはしばしばこういう愚につかない科白のことを言う。カントの書物をみるように、人間の主観は歪み不必要に長くなったりするが故に的確である。作文教育なんかで、我々のつくる文章の歪みやへたくそさの輝きに注目せず、その客観的=非人間的なお人形みたいな作文を愛でている限りAI登場以前からAIに負けているのである。

だいたい、勝ち負けみたいな観点で言うと、AIにいろいろな意味でまけたとて、いままでも様々な受験生に負けてきた私の出来の悪さに変化があるわけではない。我々は負け続けなければならぬ。それなのに、原爆やスマホをつくり、不自然に歪み長々と喜んでいる。教育でも何でもそうだが、われわれは道具の本来の使い方でない使い方に喜びを覚える。便利なものが出来たワーイという感情ですら、既にその喜びである疑いがある。

自分だけがエビデンスであるが、わたくしは九九を覚えるのが遅くクラスで最後から二番目ぐらいだった気がする。ウルトラマンの怪獣とか国語の教科書は丸暗記してたのに。しかし高校生になったら数学が一時期、一番点数を稼いでいた。国語の成績がほんとによくなったのは大学からではなかろうか。こういう現象から、我々の能力のAIと違った何らかの意味が見出せると思う。問題は英語で、いつも点数がそこそこ安定して変動がなかった。というわけでよくなりもしなかった。学級崩壊している教室での学習からはじまったのもよくなかったかもしれん。もはや、毎日英語の練習している細の姿を見て他者性を感じる。そういえば、高校の頃数学がおもしろかったのは、なんか急に散文的になった気がしたからだ。数学だって人によっては国語化することがある。


最新の画像もっと見る