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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

時間よ止まれ

2024-08-17 23:03:54 | 文学


「いや、前代未聞どころか、この世初まって以来の大御通行だ。」
 聞いているものは皆笑った。
 いつのまにか吉左衛門は高いびきだ。彼はその部屋の片すみに横になって、まるで死んだようになってしまった。
 その時になって見ると、美濃路から木曾へかけてのお継ぎ所でほとんど満足なところはなかった。会所という会所は、あるいは損じ、あるいは破れた。これは道中奉行所の役人も、尾州方の役人も、ひとしく目撃したところである。中津川、三留野の両宿にたくさんな死傷者もできた。街道には、途中で行き倒れになった人足の死体も多く発見された。
 御通行後の二日目は、和宮様の御一行も福島、藪原を過ぎ、鳥居峠を越え、奈良井宿お小休み、贄川宿御昼食の日取りである。半蔵と伊之助の二人は連れだって、その日三留野お継ぎ所の方から馬籠へ引き取って来た。伊之助は伊那助郷の担当役、半蔵も父の名代として、いろいろとあと始末をして来た。ちょうど吉左衛門は上の伏見屋に老友金兵衛を訪ねに行っていて、二人茶漬けを食いながら、話し込んでいるところだった。そこへ半蔵と伊之助とが帰って来た。
 その時だ。伊之助は声を潜めながら、木曾の下四宿から京都方の役人への祝儀として、先方の求めにより二百二十両の金を差し出したことを語った。祝儀金とは名ばかり、これはいかにも無念千万のことであると言って、お継ぎ所に来ていた福島方の役人衆までが口唇をかんだことを語った。伊那助郷の交渉をはじめ、越後、越中の人足の世話から、御一行を迎えるまでの各宿の人々の心労と尽力とを見る目があったら、いかに強欲な京都方の役人でもこんな暗い手は出せなかったはずであると語った。
「御通行のどさくさに紛れて、祝儀金を巻き揚げて行くとは――実に、言語に絶したやり方だ。」


和宮降嫁の行列で、木曽では人足の死者がかなりでたみたいなことはあまり埋もれさせてはいけないことだ。(そういえば、この時には、たしか『木曽福島町史』に載ってたけど、街道筋の見苦しい家屋は改修せよという命令が下っててこれだけでも想像を絶することだ。冗談じゃないぞ。)一方、近代の鉄道と車は交通そのものの意味を変えた。エライ人が通るだけで死人が出ることは少なくなったのかも知れない。そのかわりに、通る人そのものが死ぬ場合があるのだが。。――いやそうでもない。たしか、木曽福島の大火なんかは、蒸気機関車の火花が藁葺き屋根か何かに移ったのではないかという説があるのだ。

変わったのは、よく言われているように風景の見え方のほうである。その風景なんかを和宮とは逆に京都に向かって優雅に車窓の「うごく」風景として描いたのが戦時下の堀辰雄である。世代は違うが、藤村だって汽車や蒸気船の世代であって、それとは違う半蔵達の見え方をなんとか定着させようという野心はすごい。当時の左翼運動やナショナリズムの奧に、噂と足と伝統と勉強した知識で動く風景を観ようというのだ。

いまや、シュルレアリスムなどを経て、「ジョジョの奇妙な冒険」などが、近代の遠近法を混乱させ、止まった風景を復活させている。さっき気付いたんだが、老眼で至近距離で読むと内容がより理解出来るのだ。

思うに、この動く風景が動かないものへと移行しつつあるのが現代ではないだろうか。それはストレスフルな活動である。風景のかわりに心理の動きを饒舌に扱う、つまり風景を心理が追い抜こうとする運動は、昭和の饒舌体よりも現代のほうがあからさまである。昭和の高見順なんかは自ら汽車になろうとするおしゃれ心がありすぎて、疲れて止まってしまった。しかし、現代の作者は、無駄口を叩くという疲れない方法を編み出した。

例えば、「青春デンデケデケデケ」なんかがそうである。この本は、たしか90年頃の作品であるが、――大学だか予備校だかの時にたぶんおれよりも実力がなさそうな先生が推薦していたので読んでおらず、最近「私家版」という長いバージョンを少し読んだのだが、たぶんこれ根本的に自分が頭がよいと思っているバカ高校生の物語だなと自分を観るようで三頁ぐらいで挫折した。高校時代に読んだ三田誠広の「僕って何」とかも、僕って何とか知らねえよこのマザコンがとしか思えなかった、が、しかし、「青春デンデケでケデケ」にしても、読者をかように錯乱させる恥ずかしさを書けるということはものすごいことだ。私が為政者だったら真っ先に焚書・殲滅する。――このように感想すらなってしまうのは、基本的に彼らの文章が無駄口であって、無駄口に対しては無駄口で返すほかはないからだ。言文一致とは、あるいみ、このような対話のことなのである。

現代では、止まることが要請されている。近代でも文学の「病という意味」はそういうものだったのかもしれない。わたくしなんかが文學にこだわっているのも、その「動かない性質」の為であろう。子供の頃からアトピー性皮膚炎のひとがどこが他の人とチガウカと言えば、いろいろあるが、自分のことをかんがえてみて、自分の血の臭いを何となく纏っているという事なんじゃないかと思うのだ。常に出血している感じなので。このようなことを描くことは、動きではなく停止である。

中井紀夫の「深い穴」という作品は、湾岸戦争以降の現代に第二次大戦の復員兵が帰ってくるおかしなはなしだが、最後に、現代の若者である私と、復員兵は、目的は分からないが、スコップを持って車でどこかに繰り出す。深い穴をほらなくちゃいけないんだと思う、みたいに私はいている。風景とともに時間が流れてしまう現代は、時間の先後関係もなにもかもが混乱する。穴を掘って止まらなきゃ、と言うわけではなかろうか。しかし、そうやって頑張った安部公房とかが止まれたかどうかはわからない。

吾這五棍の棒を背に受用せよ

2024-08-16 23:25:37 | 文学


八戒仰天して、頭を叩きて罪を謝し、「師兄は誠に天眼耳道なり。吾再び行きて誠に山を巡りきたるべし。願くは罪を宥し給へ」行者はたと睨へ、「這劣貨、師命を得ながら却てわれを罵り、恣に睡りて啄木虫に釘覺され、なほ大謊をいひて師を惑さんとす。 以後の誠のため、吾這五棍の棒を背に受用せよ」と鐵棒を把て振上る。八戒大いに哭喪、師父に就て種種謝言しければ、三蔵悟浄言をつくして行者を宥め、再び八戒をやめて山を巡らしむ。 八戒悦び釘鈀をかけて走さりける。此度は孫行者跟行すといへども、疑心生暗鬼ならひ、八戒始に懲はてて、草の動き木葉の落るも行者がとおそれ、虫飛び鳥の啼も悟空が變ぜしにやとうたがひ、只管恐怖して道を急ぎけり。

ゴダールの「カルメン」で信じがたい美女としてみんなを驚かしたマルーシュカ・デートメルスは、「肉体の悪魔」の映画にも出ており、ラディゲの原作ってどういう物語だったかと、観る側を惑乱させるほどの裸踊り、皿割りでいまみても怖ろしいものである。しかし、一番我々が予想できないのは結末で、相手の少年が医者の息子のDNAなのか、デートメルスと肉体の悪魔ごっこをしていたにもかかわらず、案外優等生であって、デートメルスに涙を流させるほどの、アンティゴネについての解答をおこなうのである。

――それはともかくあれは高校の期末試験であろうか?、ダンテとかギリシャ神話の口頭試問あるのがいいわな。日本でもやったほうがいいのではないか、紫式部とか万葉集で。日本で、性の教育や議論が進まないのは、まだ文學を艶本みたいに扱っている教員がたくさんいるからに他ならない。我々は道徳心として、孫悟空が「吾這五棍の棒を背に受用せよ」と棍棒を猪八戒にふりあげる以上のものを持っているのか?

これは果たして、権力の移譲(丸山)であろうか。そうではないと思う。例えば、最近の若人は主体性がないとかいうが、主体性はあるのだ。むしろ、副委員長とか人を立てる仕事が苦手なのである。わたくしは昔からわりと副委員長に向いている気がするんだが、――しばしばみんなおれをテロリストかマレビトみたいに扱う。マレビトこそ副委員長の役目だったのを忘れたのか。三蔵法師一行は、三蔵と副委員長三人なのである。そして彼らは三蔵法師にもたらされたマレビトである。

権力の移譲の状況下では、たいがい死ぬ前の奉仕みたいな態度でしか我々は道徳心を発揮出来ない。幇間としての非人間化が人間であるような現象である。ここ10年ぐらい流行っているポストヒューマンというと、わたくし小さい頃、赤いポストより背が低かったことを思い出す。あるいは、それは色や形的に「ロボコン」みたいな人だ。最近のAIに何が足りないって、「ロボコン」の最終回で「公園ロボコン村」みたいなものを作る、映画「生きる」の如き甲斐性である。元気なときは、対して、動かずに口先野郎に過ぎない奴が多いので、それは素晴らしく見えるのであるが、やはり幇間は幇間である。

志村喬がちいさな背中をまるめてブランコを漕いでいる姿は、いかにも、彼を理解出来ない意気軒昂な連中の視線を避けるようだ。先月亡くなっていた、たけもとのぶひろの豆本全集が書棚の奧から出てきたのでみてみたが、ほんとにポケットに入るサイズだしガリ版の活字みたいなのでいいよねと思いきやもはや小さすぎて読みにくい。あと宮沢賢治とか魯迅の引用が、もはや陛下の祈り方に学ぶみたいな感じになっていた。彼も案外、ならず者から背中を丸めた人間に進化したのであった。

それがいやだというので、肉体を路上に晒すほうこうで、人間の精神を再生させようとした人々は七十年代以降たくさんいた。しかし、わたくしは、そういうむかしから特権的肉体とか言うてる奴がいやだった。彼らのテキストの内容に反して、やつらは本当に丈夫そうで、わたくしは結局、「幸福の王子」の、金をはがされて死んだ王子の足下で雪にまみれて死ぬツバメみたいなやつのほうがいいと思っていたからだ。

大学生のレポートに最近みられるという「Aをご存じだろうか。」という言い方がある。相手が自分より詳しいかも知れないという想定がないのがとてもおかしいが、いつの世にも半可通はいるものであって、しかも、彼らが活躍するのと変革期というのはだいたい重なっている。彼らは、たぶん、説明がないとできませんと言いいながら説明があってもそれができないことが多いが、これもそれほど絶望したものではない。絶望は、つい「幸福の王子」の王子とツバメみたいな悲劇を引き起こす。ツバメは王子のことを気にせずに南に飛ぶ行き方もあったに違いない。

戦争と平和

2024-08-15 23:45:35 | 文学


ある有名文芸誌を買って読んでみた。大学に無縁な自由を期待していたら、仲がいいゼミの記録みたいだった。やっぱ世の中こうなってたか。ある意味、平和だ。。

戦争は終わっていない。連合軍に負けて占領されましたという時間が引き延ばされているだけで。しかしその戦争の時間が引き延ばされているだけで、人は亡くなっていく。癩病に対する国家の顛末と一緒で、戦争のとき子供で一方的に被害者である人々が残されているときをねらって、反省しても、悲惨をさけるための平和みたいなお題目を唱えるだけになる。その平和はあいかわらず占領下の肯定にしかならず敗戦であることも否認されつつある。

二人の隣人――吉左衛門と金兵衛とをよく比べて言う人に、中津川の宮川寛斎がある。この学問のある田舎医者に言わせると、馬籠は国境だ、おそらく町人気質の金兵衛にも、あの惣右衛門親子にも、商才に富む美濃人の血が混り合っているのだろう、そこへ行くと吉左衛門は多分に信濃の百姓であると。
 吉左衛門が青山の家は馬籠の裏山にある本陣林のように古い。木曾谷の西のはずれに初めて馬籠の村を開拓したのも、相州三浦の方から移って来た青山監物の第二子であった。ここに一宇を建立して、万福寺と名づけたのも、これまた同じ人であった。万福寺殿昌屋常久禅定門、俗名青山次郎左衛門、隠居しての名を道斎と呼んだ人が、自分で建立した寺の墓地に眠ったのは、天正十二年の昔にあたる。
「金兵衛さんの家と、おれの家とは違う。」
 と吉左衛門が自分の忰に言って見せるのも、その家族の歴史をさす。


私なんかは、木曽路は南北の道だと思っていた(実際、木曽上松あたりは南北に延びている)のだが、半蔵達は東西の道みたいに思っている。それと西洋東洋と重ねているんだろうが、――実際に歩いてみると、地図のように、木曽路は、東よりに北上、逆に西寄りに南下、のイメージが強いのかもしれない。いまは汽車に乗っているから分からなくなっているのかもしれない、と思ったが、中山道は江戸と京都を東西を結んでいる道なので、そういうイメージなのであろう。話の中で西・京都から東・江戸への和宮降嫁に直面して疲弊する木曽路の様子が長々と描かれるのもそのせいである。単に中山道の方向の問題には思われないのである。半蔵達の思想はある意味、江戸と京都を行き来するみたいに揺れている。しかも、どちらかに直接コミットするのではないから、評論家的に右往左往するのである。日本の本質を藤村がそこにみていることは確かであろう。

いま考えてみると公武合体ってすごいよな、ゲッターロボじゃねえんだからよ――とかつい茶化すしかないわたくしもおなじ穴の狢だ。

ある意味、明治以降の日本は、そのコンプレックスから、――当事者になろうとする過程を展開し、敗北して再び傍観者、――というより、大名や和宮が通過するたびに人と馬が動員され死者を出す、それだけであるところの木曽の宿場みたいな位置に押し戻された。それを平和と呼んでいる。

しかし、当事者とはいったい何であろうか。さっき、テレビで、終戦の日特集で、「終戦一週間前なのに機銃掃射にあうなんて考えられない」という発言が、当時機銃掃射をうけてたまたま生き残った戦争体験者から発せられていた。が、――まったくもって「考えられる」わけである。戦争の悲惨さにはいろいろあるが、その当事者とは、物事の順番とか因果を考えられなくなってしまうことを言う。復讐の連鎖が云々とかいわれるけれども、それ以上に何が何だか分からなくなってしまうのである。

近代文学なんかやってると、まあ先の戦争の「戦争責任問題」に対しては、第二次大戦のときの、行く末がまずいのを薄々気付いていながらボールを追いかけていたら知らないうちに崖から落ちてたみたいな顛末を考察しているだけではだめで、問題は日清日露なのよ。。と思う。藤村はそれに自覚的で、それゆえ無理やり維新以前に遡行(回避)してるとしか思えない。

あるいみ、教師に激しくぶん殴られた生徒が意地でも反省しなくなるように、敗戦に至った過程を反省せよというのはハードルが高い。今風に言うと、撲られた奴は自分の罪を封印しハラスメントだと思っちゃうんじゃないか?ゆえに自己肯定感が高かった時を反省させようぜ(余計無理か)

いま、戦争体験者の生き残りとは当時たいがいは子供だった人なのである。だから一方的に被害者にみえる。しかし、私の祖父祖母の世代は日露戦争に誇りを持ち、日清日露帰りがたくさんいる中で育ち、山本五十六が生きてたら勝ってたみたいなことを本気で言う人がかなりいた。彼らにとっては、にもかかわらずひどく負けたし、自分の手も汚している、――つまり犯罪者として扱われた、という複雑感情こそが厭戦気分を支えているところがあり、容易に戦争についてもコメント出来なかった。だから、思い切って言ってやるぜみたいな反戦運動も強迫的にあったわけだと思う。こういう屈折をなくした老人だけがいる今後が大変だ。記憶の継承というのはある意味もう手遅れなのである。現在のやばさから掘っていった方がよい。戦争がなぜ起こるかなんか、現在をよく見りゃ、一目瞭然ではないか。

「まあ、諸国の神宮寺なぞをのぞいてごらんなさい。本地垂跡なぞということが唱えられてから、この国の神は大日如来や阿弥陀如来の化身だとされていますよ。神仏はこんなに混淆されてしまった。」
「あなたがたはまだ若いな。」と九太夫の声が言う。「そりゃ権現さまもあり、妙見さまもあり、金毘羅さまもある。神さまだか、仏さまだかわからないようなところは、いくらだってある。あらたかでありさえすれば、それでいいじゃありませんか。」
「ところが、わたしどもはそうは思わないんです。これが末世の証拠だと思うんです。金胎両部なぞの教えになると、実際ひどい。仏の力にすがることによって、はじめてこの国の神も救われると説くじゃありませんか。あれは実に神の冒涜というものです。どうしてみんなは、こう平気でいられるのか。話はすこし違いますが、嘉永六年に異国の船が初めて押し寄せて来た時は、わたしの二十三の歳でした。しかしあれを初めての黒船と思ったのは間違いでした。考えて見ると遠い昔から何艘の黒船がこの国に着いたかしれない。まあ、わたしどもに言わせると、伝教でも、空海でも――みんな、黒船ですよ。」
「どうも本陣の跡継ぎともあろうものが、こういう議論をする。そんなら、わたしは上の伏見屋へ行って聞いて見る。金兵衛さんはわたしの味方だ。お寺の世話をよくして来たのも、あの人だ。よろしいか、これだけのことは忘れないでくださいよ――馬籠の万福寺は、あなたの家の御先祖の青山道斎が建立したものですよ。」
 この九太夫は、平素自分から、「馬籠の九太夫、贄川の権太夫」と言って、太夫を名のるものは木曾十一宿に二人しかないというほどの太夫自慢だ。それに本来なら、吉左衛門の家が今度の和宮様のお小休み所にあてられるところだが、それが普請中とあって、問屋分担の九太夫の家に振り向けられたというだけでも鼻息が荒い。
 思わず寿平次は半蔵の声を聞いて、神葬祭の一条が平田篤胤没後の諸門人から出た改革意見であることを知った。彼は会所の周囲を往ったり来たりして、そこを立ち去りかねていた。


むろん、上の屈折に充実した認識がもともとあったかどうかは別問題で、藤村にしても、「夜明け前」をみるかぎり国学や仏教に対する認識がどことなく表面的である。その表面的なところは、知の当事者から疎外され木曽の山猿でしかない半蔵のそこがだめだと言いたいのかもしれないが、藤村自身が父の世代を理解しようとしなかったことも確かじゃねえかと想像する。

うどん県に立て籠もる件

2024-08-14 23:35:33 | 文学


  しろかねにいたくおとれるどるらるを知りてさておく世こそつたなき
  国つ物足らずなりなばどるらるは山とつむとも何にかはせむ
 これらの歌に「どる」とか、「どるらる」とかあるのは、外国商人の手によりて輸入せらるる悪質なメキシコドル、香港ドルなどの洋銀をさす。それは民間に流通するよりも多く徳川幕府の手に入って、一分銀に改鋳せらるるというものである。
「わたしがこんな歌をつくったのはめずらしいでしょう。」と半蔵が言い出した。
「しかし、宮川先生の旧い弟子仲間では、半蔵さんは歌の詠める人だと思っていましたよ。」と香蔵が答える。
「それがです、自分でも物になるかと思い初めたのは、横須賀の旅からです。あの旅が歌を引き出したんですね。詠んで見たら、自分にも詠める。」
「ほら、君が横須賀の旅から贈ってくだすったのがあるじゃありませんか。」
「でも、香蔵さん、吾家の阿爺が俳諧を楽しむのと、わたしが和歌を詠んで見たいと思うのとでは、だいぶその心持ちに相違があるんです。わたしはやはり、本居先生の歌にもとづいて、いくらかでも古の人の素直な心に帰って行くために、詩を詠むと考えたいんです。それほど今の時世に生まれたものは、自然なものを失っていると思うんですが、どうでしょう。」
 半蔵らはすべてこの調子で踏み出して行こうとした。あの本居宣長ののこした教えを祖述するばかりでなく、それを極端にまで持って行って、実行への道をあけたところに、日ごろ半蔵らが畏敬する平田篤胤の不屈な気魄がある。


――「夜明け前」


オリンピックがしらないうちに終わってたが、別に抵抗してたわけじゃなく仕事と家事など忙しくて余裕がなかった。誰かも言ってたけど、やはりあれは見てる方にとっては暇つぶしの側面が大きい。あまりに遠すぎる出来事なのだ。テレビに映されているから余計そうなった。

今考えると、中学生のわたくしに言いたいのは、お前はドストエフスキー読んで興奮している場合ではなく、いますぐ「夜明け前」をよめ、いろんな意味で当事者なんだから今すぐ読め、ということだ。遠すぎることではなく、実際、木曽からの移動が現実的な問題だったのであり、その条件がわたくしを定めていた。

批評的に評価されていた「テイク・シェルター」という映画、――嵐が来ると言うんで庭にシェルターつくるはなしだけれども、思うに、彼らが澄んでいるアメリカの田舎に、これをつくるスペースが庭にあり実際に掘れるほどの堅さの地面であるということと関係がある。我々の社会にはたぶんそれもない。木曽にもない。それは頑強な谷であり、交通路そのものだ。その結果、さしあたり我々は掘らずに空想を空に飛ばす。

「夜明け前」第一部の第三章で、江戸に行こうとする半蔵達が木曽の東の端である奈良井まで来て、なんとなく落ち着く「山の裾」を感じた場面がある。馬籠も「西の山の裾」ということであり、――木曽路は山の中であるが、ちゃんと西と東に山の裾がある。で、半蔵達は、北側の福島の役人的な中心を気にしている。でもほんとの権力は南の美濃のほうにあり、むろんホントの権力は江戸にあり、――更に外側から黒船がくる。上のように、半蔵は、横須賀に旅して帰ってきたら和歌を詠める気がして詠んだら詠めた、みたいなことを第五章で言っている。時事を詠じたなんかうまくもないものだが、宣長を自然に帰れ的な観念として解することであまり自制が働かない。そこに第四章で描かれた、開国に直面する宮川(師匠)が漢心を抜けきっていない直前の世代として浮上してくる。新たなものは知らない宣長や篤胤を通じて自分に復活するような気分なのである。

「夜明け前」は旅小説であるが、木曽のおかれた地理的条件によって認識を得るために旅が必要であり、木曽に帰ることでその認識が変容してそれがまた、――のようなくり返しが複数の人間によっておこる。自分の移動が転向と一体化しているような感覚だから、もはや後戻りは出来ない。歩行は後ろ向きには出来ない。

人類はうどんについて悩みすぎということだ。そのせいで香川県民を超えられない。重要なのは、店選びを思い悩まずとも美味いうどんにありつける文明社会を構築することだ。うどんの美味しさは、個人の哲学だけではなく、文明の哲学を反映する。 それゆえ尽力すべきは、「文明のうどん性」を高めることにほかならぬ。香川はそうして世界に誇るうどん性を練りあげてきた。
 香川県民はうどんのために、ため池を築き、塩田をひらき、山脈をこえて路を引き、うどん用小麦の開発に取り組んできた。香川のうどんは、自然の風土と悠久の歴史、そして人々の精神とが絡まりあった、西洋近代的二元論を超越した存在なのである。うどんを啜れば、瀬戸内海文明論が立ち上がる。


――植田将暉「うどんの文明論」(ゲンロン『友の会だより』2024・8/15)


香川出身の植田氏は「文明のうどん性」によって「西洋近代的二ゲンロン」を超越するみたいなことを書いているが、仮にうどんで糖尿病になってもうどんで治せるぐらいのことを言わないと、近代を超えたとは言えないのではなかろうか。無論、上の二つ目の段落のような楽しい嘘は、藤村の主人公達が陥る転向を、うどんの空想的拠点に立て籠もることで避けるためのものである。ゲンロンの人たちは五反田でそれをやろうとしている。それはやはり東京だから可能なことのようにおもえるが、それは我々が「夜明け前」の移動的亡霊に取り憑かれているためであろう。

そういえば、京大パルチザンの竹本信弘氏の死亡記事が出ていた。逃亡生活一〇年で有名な氏は最近まで生きておられたのか。豆本全集を持っているからこんど眺めてみよう。最後は「今上天皇の祈りに学ぶ」とかを書いていたらしいんだが、これは読んでない。しかし、ほんと、移動しすぎにもほどがある。

わたくしだって香川に立てこもっている。それで蕎麦を食べている。今日は久しぶりに蕎麦を食べようと茹でて冷水で締め――って暑すぎて水道からお湯しか出ねえじゃねえかこのうどん県水道が。

確かに、うどん県みたいなネーミングは確かに小学生並みだ。しかし池波正太郎のように、「東京のうどんなんか東京のおれたちでもまずくて一気に喉に流し込まなきゃいけないほどなんだからさ東京のうどんなんか食べられねえとか言うやつは馬鹿の骨頂」(「男の作法」意訳)とかご託を並べること自体が通を超克した通なのであってみれば、これはこれでうざったすぎる。うどん県のほうがそれが好きだということが分かってよいのではなかろうか。私は蕎麦が好きだ。

あまりに口承的な

2024-08-13 23:35:17 | 思想


松本 だから争議の出発が労使協調会で決まったものを地主側が押しつけて来たという、そこから始まっているわけですね。この西塩田の争議でね、よく名前出て来る人だけど、黒坂勝さんの役割はちょっと変わったというか、どんな役割をはたしていたのでしょうか。
斉藤 勝さんて人の名は当時、かなりひびいてて私は勝さんにはそう行き合ってはいないがね。あの人は、そういう意味で面白い役割をしているですよ。農民組合の会合に出て来るなんてことは無いわけだ。
金井 ほら、村役場に勤めてて、早く言えば影武者みたいな(笑) もんで、小作側に同情しながら、まあ、入れ知恵してたっていうか、そういう役割らしいな。だから悪く言う人は『黒腹勝』とかいって(笑)
深町 私ら、黒坂さんの役割っていうのを評価してたもの、ちゃんとね。
松本 前山寺の住職の回顧録にあるように住職の方でも黒坂さんは組合側だっていうふうに見てますね。
小平 住職の研究会から消えた人の一人として。
高遠 坊主のやった青年部みたいのあったでしょ、大部分の人が、高倉さんの方へみんな行っちゃうわけだ。


――「西塩田小作争議を語る」(『長野県上小地方農民運動史』)


『日本暗殺秘史』、この映画もそうであるが、こういう映画が人情ドラマにするために、というより、マルクス主義者もびっくりの反映論によって――事件を当時の貧困とか失恋とか時代相とかに原因をもとめ、天皇とか法華経とか、国体なんとか説とかを看過しつづけているのはだめだ。思想犯を否認しているうちに思想の存在を否定してしまっている。

確かに、机上の空論だけで暗殺事件が起きるわけはなく、――むかしひとからきいたことだったが、戦時下、有力地主から不動産をもらってけっこうな土地を所有した寺がたくさんあり、勢いその寺は不動産や金を出した連中に頭があがらなくなり、保守的な青年会などの苗床として機能したみたいな話は、上の運動史でも証言されていた。かようなつまらないことで仏教の転向?は起こっていただろうし、あまりにつまらないので、戦争責任の話題にもあまり上ってこない。

それでも、血盟団事件の井上日召の拠点となった寺みたいに目立たなくとも、神社や寺が思想転回をなすだけの空間を用意したことは確かであろう。上の農民運動に関係していたタカクラテルなんか、そういう寺の青年部なんかを一気に転向させる弁舌の力があったということだ。当時の農村運動なんか、あのひとの演説はすごかったとか、勉強会での話は面白かったとか、文字文化よりも口承的な感じで運動が広がっていた可能性がある。「セヴンテーィン」の少年も、右翼の大物の怒号的演説にふれて自分もその吠え方を即座に身につけた。考えてみれば、今もそういう現象は多い。

戦前の長野県の、京都学派及びマルクス主義的なものの勉強会運動は、本を読む以上に「話を聞く」ものだったのかもしれない。京都学派も○クス主義者も、その晦渋な文体は文章としての武器であったが、話すと案外分かりやすい人も多かったわけであった。

最近、どこかのアナウンサーが男性の体臭がひどいのでやめてみたいなツイートをしたところ、首になってしまったそうだ。加齢臭とか男性臭とか化粧臭とかそりゃまそういうもんもあるであろうが、國文學者にとってもっとおそろしいものは萬葉集とか古今和歌集とか漱石全集とか、――とふざけてみるまでもなく、文字が無臭であることは重要だ。臭いの恐怖は、自らへの恐怖でもある。そしてツイートとは所詮文字で書かれた口承文芸であって、臭いに近いものなのである。だから我々はそれに感染したり恐怖したりする。

口承文芸には、よみがえってはならないものへの恐怖がある。それを打ち消すのも口承的なものの特徴であり、戦前の言論弾圧は結局、文章を書くな、ではなく「口を閉じろ」の運動であった。対して、文字には我々がよみがえらせようとするもの、現に存在しているもののすべてが無臭で入り込む。古文漢文、へたすると英語やドイツ語も現代国語の一部なのだ。我々の文章にはそれら全てが全部死んでない状態で生起する。言文一致?の現代の文体なんてのも存在しているわけじゃなく何かの過程の産物だ。過去は決して更新されたりはせず掘り返されながら変容してゆくものなので、役に立つとか立たんとかいう人はいつもいるが、結局我々の変容する習性に勝ったことはない。

革命の起点――八戒終に諾し、身を跳らして雲に上り、花果山をさしてぞ飛行きける

2024-08-12 23:36:16 | 文学


八戒頭をなで「我徒が武藝かれに及ばず。迚も師父を救ふ事能はじ。不如是より散火せんには」とて又逃行かんとす。白馬また衣を咬とどめ、「師兄何ぞかく臆病なる。 那妖恠を殺し師を救はんものは、大師兄孫行者なり。早く花果山に至り、大師兄を請じきたれ。但し今師父の難に遭給ふ事を語らず、只師父一朝の怒に他を逐放せしを悔み、常々戀々として慕ひ給ふと、欺き哄しきたれ。他きたりて師父の難を見ば、かならず妖恠を除き、師父を救べし」と諫励しければ、八戒終に諾し、身を跳らして雲に上り、花果山をさしてぞ飛行きける。

アメリカにもそういえば空を飛ぶ豚――いやちがった、あれは象であった――がいた。昔「トンでぶーりん」とかいうアニメーションもあったし、押井守のアニメーションでも豚が飛んでいた。ピンクフロイドのジャケットでも飛んでいた。宮崎駿の飛行機に豚が乗っていてかっこいいのは豚だみたいなことを言っていたような気がする。

昔わたくしが耳を囓った枕も豚であった。

上のように、悟空を呼びに行く豚は雲にも乗れるのである。

――世の中、かような夢を見すぎていて、普通に豚は我々に食われるのが関の山であることを忘れる。エライのは、一番最初に豚を虚構で飛ばした奴である。ありえない一点でも、我々が抜けられぬことになることがある。

世の中の革命志望者達は、あまり自分たちのやっていることがこの「最初の豚が飛ぶ」ことになるかどうかを気にしない。我々はそれを日常の時間の延長だととらえ過ぎているのかも知れない。例えば、学問や授業だって日常ではなく革命に近い。模擬授業をたんとやれば授業がうまくやれると思っているレベルの人間が教師をやってはならないのは、そういう事情が分からないからだ。授業は革命でありそれがきつすぎる言い方というなら創造である。

この前、田島列島『子供は分かってあげない 上』を読んだ。田島氏の作品は、夏休みが部活で忙しかった私にとってはいろんなことがあっても基本敗北としてのユートピアに見える。そこでは、子どもたちの親たちが起こした事件(不倫とか再婚とか)を日常に接続させる仕事が行われているが、それは親のやったことに対して良いことと言えるのかどうかはわからない。人生は、子どもたちが考えているより長く、自分の意志によってコントロール出来ず、しかし何者かが何かを引き起こさずにはいられない。

藤村の「夜明け前」は、読んでない頃想像していたよりもかなり簡素で、娯楽的ではないがしかしそういう傾きはもつ作品である。やはり藤村は柳田ではない。しかし、藤村は柳田と違って革命や新しい言葉にこだわっている。そして、自分の出現以前に敗北ではあったが一点の革命が行われている可能性を見つけ出そうとしている。

血盟団事件を主として扱った、テロ・オニムバス映画『日本暗殺秘録』の最後には、「そして現代、暗殺を超える思想とは何か」って文字が出ている。しかし、やたら思想で超えるのも問題かも知れない。確かに、当時ですら思想で超えている奴はたくさんいたし、八十年代になってからはどんどん超えていった人間で溢れている。けれども、暗殺が目指したように――暗殺がある種の起点になって世の中が変容してゆく過程そのもの超えるのは容易ではない。――そこで飛ぶ豚である、ということになるのかどうか。わたしには全くわからない。

たぶん、違うと思うのである。

鏖とスポーツ

2024-08-11 23:25:37 | 文学


孫行者、此時東洋大海を過ぎて、遂に花果山にかへり見れば、山中すべて荒れすさみ、峯倒れ、岸崩れ、むかし見し山とも覚えず。暫くあきれてたたずむ處に、坡の陰より七八個の小猿走り出で、「大聖帰り給へり」とて、我先に禮をなす。行者問うて曰く、「我暫く帰らざる内に、何としてかく山中の荒れはてたるぞ」小猴們泣いて申しけるは、「近來大勢の人此山に入りて、我我眷族を獵取り、或は煎て是を吃ひ、或は跳圈せてなぐさみとなし、敢て一個の猿も頭をさし出すものなし。大聖憐を垂れて是をすくひ給へ」行者聞きて大きに怒り、心安くおもふべし。此猟人を鏖にして你們が仇をむくふべし」とて、山の上に多くの石を置き、人の来るを待ちゐたり。時に南の方より、数千人の猟師、鷹を居ゑ、犬を走らせ、鑼鼓を鳴し、花果山に臨んで押よせたり。悟空是を見て、山の巓に立ちあらはれ、咒を唱へての巽の方に向ひ、一度氣を吐下すに、忽ち狂風吹起り、那積貯へし砕石、雨あられと飛散りて獵人を討つほどに、或は頭を討れ手足を損じ、死者の者数を知らず、散り散りに成りて迯失たり。


映画「サンダーバード6号」で、主人公達が助かったあと、「そういえば執事のパーカーはどこいった?まあいいか。」みたいな笑いがあり、執事は人間じゃねえのかよと思った。そういえば、その執事、むかし犯罪者だったという設定なのであった。でもひどい。

いろいろ見てきた結果おもうのは、――文学や思想の威力は人間が管理職みたいなものになったときにあらわれる。「サンダーバード」を観ているだけでは、管理職を真面目にやってりゃ悪を懲らしめても良いことになりつづけるが、「西遊記」でさえ、如来以外はほぼ悪人であって、読者は花果山に帰った悟空が猟師たちを鏖にし殲滅しても、大して溜飲を下げることはない。悟空も罪人だからである。

中沢新一のレヴィ・ストロース論『構造の奧』の最終章は、仮面論であり、南米にみられるサンダーバードの仮面が、日本でも山姥伝説となってあらわれているみたいなことを書いていた。人形劇・「サンダーバード」は、英国の作品であるが、――もしかしたら、英国が先んじて近代のほころびを見せていたのがこの特撮だったかも知れない。しかしこの作品が人間と世界を人形的な機構で作り直す試みを驚くべき完成度でやり遂げているとこがさすが、蒸気機関で近代を始めた国の意地であった、――しかし、それを真似した日本では、ほぼ超近代的、土俗的仮面劇になってしまった。

パラリンピックは、ヒューマニズムを錦の御旗にしたメカニズムの勝利とともにあり、ますます肉体を機械と化した近代文明の祭典となったオリンピックである。わたくし、今年に入ってから異様にスポーツなどに興味がなくなったと言ってたら、細が疲れてんじゃない?と言っていたが、それはあるかもしれない。スポーツというのは娯楽的である以上に、一定の体力を観る者に要求している。力をもらいましたみたいな感想には、要求されているのを、与えられていると錯覚している面がある。

木曽への処世

2024-08-10 23:02:20 | 文学


遠からず来る半蔵の結婚の日のことは、すでにしばしば吉左衛門夫婦の話に上るころであった。隣宿妻籠の本陣、青山寿平次の妹、お民という娘が半蔵の未来の妻に選ばれた。この忰の結婚には、吉左衛門も多くの望みをかけていた。早くも青年時代にやって来たような濃い憂鬱が半蔵を苦しめたことを想って見て、もっと生活を変えさせたいと考えることは、その一つであった。六十六歳の隠居半六から家督を譲り受けたように、吉左衛門自身もまた勤められるだけ本陣の当主を勤めて、あとから来るものに代を譲って行きたいと考えることも、その一つであった。半蔵の結婚は、やがて馬籠の本陣と、妻籠の本陣とを新たに結びつけることになる。二軒の本陣はもともと同姓を名乗るばかりでなく、遠い昔は相州三浦の方から来て、まず妻籠に落ち着いた、青山監物を父祖とする兄弟関係の間柄でもある、と言い伝えられている。二人の兄弟は二里ばかりの谷間をへだてて分かれ住んだ。兄は妻籠に。弟は馬籠に。何百年来のこの古い関係をもう一度新しくして、末頼もしい寿平次を半蔵の義理ある兄弟と考えて見ることも、その一つであった。

――「夜明け前」


半蔵は馬籠の本陣の息子だったが、かれが学問をやることは馬籠の外との関係が重要であった。父からも学んだが、上田や中津川の知識人から学んだのである。それが国学だったわけであるが、かれにとっては外部としての国学だった。で、それほど早期教育でなかったこともあって、十代のおわりになって更にいろいろ学ぶかというときに黒船が来た。外部に外部が重ねられた。もともと木曽は外部からの浪をそういう風に受けがちなところなのであろうが、その二つの外部が相反するものであったことが半蔵の運命を決めた。彼は変動する外部の問題に楔を打ち込むべく、座敷牢に引きこもることになるわけである。

むかし木曽で西洋音楽を習っているとき、音楽に対して日本語が嫌だなあと思い始めた感覚を今でも覚えているが、現在、國文の世界にいてもまだそれがある。――と考えてみると、英語も私は嫌なのである。ここには、なにか閉ざされているところにいる前提があって、それによる複雑感情が面倒だという屈折が働いているようだ。これに対して、日本の「近代西洋音楽」を世に広めた片山杜秀氏とかはその屈折がない。考えてみると、氏の日本語はなんかシン明治時代のそれみたいだ。明治以来、やたら新なんとかみたいな事をしてきた連中は、半蔵のようになる恐れがない。

そういえばわたくしの祖父は奈良井?からの養子で、祖母も田立から嫁に来ている。こういう場合、木曽福島はもともと地元ではないどころか、何か強制的に連れてこられた土地みたいに思っていた可能性がある。子どもや孫達にもそんな感覚がいくらか感染するんじゃないかなと思ったこともあるのだ。木曽にかぎらず日本の田舎もんにはこういう場合が多いかもしれない。半蔵は、となりの村の本陣の娘と結婚するわけであるが、これは家が本陣どうしだったから成立したはなしで、本陣がそのほかのいろいろなものに変わってもおなじことが起こり、隣の村でなくても起こるのである。

あと気になるのは、戦争である。爆弾が降ってこない代わりに戦時下の田舎はまた別のしんどさが発生した。田舎の同調圧力のいくらかは戦時下の統制が起源である。もちろんもっと伝統的な何かも含めた、そんなゴタゴタをいやがって、戦後にそこから飛び出した人間はかなりいるはずである。柳田國男がくわしくどこかで語っていたように思うが、とにかく、「合理的」に人を移動させる、移動することに我が国の田舎もんはかなり躊躇がない。むしろ、勇気を持って故郷に立てこもることが必要な場合だってあるくらいである。

その点、映画「二十四の瞳」は確かに欺瞞的な部分もあったが、地方に踏みとどまり教師を続けるのはすばらしいことだというような感覚を戦後の優等生達に与えた面もあったと思われる。いまは、この映画を語るときには、つい、子どもに寄り添う理想的人格の称揚みたいな、アホウみたいなかんじになってしまう。が、当時は信用を失った国民教育を戦中生まれのわたしたちが田舎から立て直すみたいな心意気が感じられたんだと思う。戦争は、女性が職業婦人として皇国教育を担った問題を作り出しちゃってたのでよけいそうである。もうたぶん誰かが研究していると思うけれども、男の職場に入ってきた「女の先生」が児童になめられないために必要以上にコワモテになる問題が、戦時下でも起こっていたはずであって、大石先生はそれへのアンチテーゼなのである。現在に至るまで、ある種の子どもの「男女差別」というのはすごいのであって、戦争と同じく困難な問題である。

悟空に対する

2024-08-09 23:16:32 | 文学


孫行者、今は心安して、鐵棒を振うてかの老翁を一討に打殺せば、一陣の靈光と化し、四方に散じて飛失せたり。 行者鐵棒突きて三歳に向って曰く、「父、今こそ妖精を實に打殺せり。ちかよりて見給へ」と云ふ。三蔵いよいよおどろき、馬をよせて見給ふに、一惟の骷髏地に倒れたり。三蔵行者に問うて曰く、「是は抑々何ぞや」行者の曰く、「渠原來倒れ死したものの魂、此所にあつまりて妖をなす。此吾に打たれて本相をあらはしたり」八戒かさねて申しけるは、「師父、行者の申すことを信じ給ふな三たび人を打殺しぬれど、師父の金箍咒を唱へて責め給ふことを恐れ、法術を以て屍をかくし、骷髏となし、師父の眼を掩ふものなり」 三蔵此八戒が言を信じ、行者がふるまひを恨み、嘘つて曰く、「今に至て兇性を改めず。豈我が徒弟となりて西天に至り得んや。早く故郷へ帰り去るべし」行者の曰く、「吾妖精を殺して師父の害を除きまゐらするに、一個の獃子が申すことを信じ、我を逐ひ給は何事ぞや。抑我兩界を救ひ出されてより以来、古洞を穿ち深林に入り、千辛萬苦して妖魔を除きしも、畢竟烏盡きて弓藏れ、 兎死して狗烹らると云ふ、世の諺もおもひ合され候」といふ。

三蔵がなぜ悟空の頭に箍をかける正解を導きながら、悟空のやってることが分からないのか。三蔵がでかい目標を持っていることと関係があるのか?そうではあるまい。やはり三蔵が悟空の分かることを分からないに過ぎない。しかしだからといって悟空が三蔵より優れているとは言えない。

しかし、こんなことが分からなくなっているのが現代であり、三蔵と悟空を並列的に評価し、結句、悟空をボス猿として崇めてしまったりするわけである。

そういうことを許さないためには、少しの合理的修正とか人をバカにしない工夫とかが自然に出来ることが重要であるが、それができない組織、――というか人の集まりは、かならず「改革」とかで人を貶めて溜飲を下げるやり方に移行してゆく。

AIは新たな悟空みたいなものである。難しい議論だけれども発達障害者なんかも新たな悟空なのである。――こんなときに三蔵の側がなにを思うか?例えば、AIは恋愛が分かるかみたいなお題はよくあるけれども、正直なところ、恋愛は分かりやすい方なのである。分かりやすい方じゃなきゃこんなにいろんな小説に書かれるわけがない。そもそもAI脅威論は人間が頭良いことが前提になっていることが多いんだが、どうみてもそこらの昆虫よりも愚かにみえるという側面を見ないふりをしているから議論が一面的になる。

如来の掌と科学

2024-08-08 23:50:30 | 文学


「吾南海に往きて菩薩をたのみまゐらせ、かの人参樹を活さんとす。はやく用意をなし給へ」と云ふ。大仙則仙徒仙童に命じ、後園をきよめ、菩薩を乞うて人参園に入れまゐらせ、衆人皆々後に引そひ立入りたり。菩薩頓て行者をまねき、渠が手の心に起死回生の符を畫き瓶中の甘露をして是をひたし、樹の根に拳をさし入れ給へば、忽一道の清水湧出たり。菩薩仙童に命じて、其水を玉碗にて多くくみ出し、行者、八戒、沙僧等に仰せて、かの大木を引起させ、玉器の水を楊柳の枝にひたし、樹にむかひて澆ぎ給へば、暫時の内に𦾔のごとくに生茂り、二十三個の人参果枝につらなり、前よりもあざやかなり。


世界に荒唐無稽な話はとてもおおいが、「西遊記」は滅茶苦茶な悟空を超える力を如来だかに想定してしまったので、もう悟空もふくめて世の中全体がなんでもかんでも荒唐無稽でありうることになった。荒唐無稽さは所詮如来の掌の上のことであって、その愚かな世界の壁を作っている如来のほうはたぶんまともであろう、ということで。

対して、近代社会のSFは、荒唐無稽さにむしろ科学的真実らしさという箍がかかっている。例えば、『ムー』の五二三号に「源氏物語」の特集があったので読んでみたがかなり普通であった。いまやってる大河ドラマのほうが荒唐無稽である。わたくしは、道長と紫式部が寺で子作りしてしまいましたみたいな普通のことではなく、『ムー』には、光源氏は天皇とエイリアンの子どもだったとかそういうはなしを期待していたのである。しかし、それよりも、紫式部の子孫が実は天皇であるとか、いなかの地主がワシの家は藤原家の末裔だとか仙石家の末裔だとか言っているのと同じではないか。

「何でも食べてやろう」批判

2024-08-07 23:19:45 | 思想


 話はかわるが、日本は世界最大の麺大国だ。そば、うどん、ラーメンをはじめとして、ほとんどの麺と名のつくものを日本人ほど食べている民族はないように思う。
 日本が麺大国に君臨している理由のひとつは、その食べ方と食べる習慣、食べる技術によるものが大きいと思う。食べる技術などというと大仰だが、簡単にいうと「ススル」「ススレル」という身体機能、動作である。 具体的にはどんぶりを両手で持ち上げて空中で麺をススリ、スープ、汁などを飲むことができる。あるいは飲める習慣が一般的になっていることである。逆にいうと、欧米人などは麺をススルことがなかなか難しいという。口の構造や食べ方の技術に民族的にススル動作がないからだ。だから彼らは行列ができるようなおいしいラーメン屋に行っても、豪快にずるずるススリ、まだアッアツのスープをどんぶりごと持ち上げてごくごく飲むなどということが、ほとんどできない。


――「すばらしいススリ文化」


かように椎名誠が以前、日本人だけが蕎麦をススる文化を持っててみたいなことを言ってたが、わたくしはこのススる食べ方が好きでない。あれは、職場で自分の足音をことさら響かせて歩くおかしい奴とおなじにみえる。わたくしは断固しずかに食べるね。高峰秀子様も食べ物にあれこれご託を並べるのを嫌っていた。その割に食べ物のエッセイは多いが。。パリから帰ってきて蕎麦を食べ始めたみたいな文章で、蕎麦が「庶民の味、下駄ばきの味、風呂返りの味」とか言われているのを紹介しながら、自分は「説明不要の主義」なんだと言っていた。無論、「下駄ばきの味」というのは、池波正太郎かなにかが下駄ばきで蕎麦屋に行き酒を飲むみたいな文章をさりげなくバカにしているのである。

美食家みたいな作家の文章って、ホントに嫌な奴らだと思わせる。しかしいわゆる昭和的なものはこういういやらしさと切り離せない。ここ三〇年ぐらいで、「食文化」とか言いだしてからはこういういやらしさが消えて、我々の文化は栄養補給、ただの食事になったかもしれない。ただ、そのすがすがしさもあると思うものだ。わたくしは幼児の頃からほとんど食に興味がなく、いまも異様にないと思う。中年以降の学者たちがどこかしらグルメな奴らになっているというのに。食は、スポーツ的な社交と関係がある。学会参加をしたがる人たちは、終わってから美味いものを食いに行くというのが好きなのである。学会発表が授業なら、懇親会以降は部活である。

そういえば、金メダルを噛む風習がどこから来たのか知らないが、たぶん金メダルをとるというのは金メダルを食べたい欲望と少し結びついているんじゃないだろうか。何でも食べてやろうみたいな欲望がスポーツである可能性はある。わたくしが小田実が好きでないのは、「何でも見てやろう」という題名が、なにか食欲のようなニュアンスを帯びているような気がしたからである。

Влади́мир Ильи́ч Ле́нин

2024-08-06 23:05:07 | 文学


 不圖――不圖幸子は分つた氣がした。それもすつかり分つた氣がした。「レーニンだ!」と思つた。これ等のことが皆レーニンから來てゐることだ、それに氣付いた。色々な本の澤山ある父の勉強室に、何枚も貼りつけられてゐる寫眞のレーニンの顏が、アリ/\と幸子に見えた。それは、あの頭の禿げた學校の吉田といふ小使さんと、そつくりの顏だつた。そして、それに――組合の人達がくる度に、父と一緒に色々な歌をうたつた。幸子は然し、子供の歌に對する敏感さから、大人達の誰よりも早く「×旗の歌」や「メーデイの歌」を覺えてしまつた。幸子は學校でも家でも「からたちの唄」や「カナリヤの歌」なぞと一緒に、その歌を意味も分らずに、何處ででも歌つた。それで、何度も幸子は組合の人から頭を撫てもらつた。――父は決して惡い人でないし、惡いこともする筈がない。幸子には、だからそれは矢張り「レーニン」と「×旗の歌」のせいだとしか思へない氣がした。――さうだ、確かにそれしかない。

――小林多喜二「一九二八年三月一五日」


若い頃、本に線をひっぱったり悪口を書きながら勉強したが、困ったのはレーニンの「哲学ノート」で、すでにレーニンによってヘーゲルとかの引用に「はっはっ!!」とか「弱い!」とか「??」とか書き込んであるのである。すでにツッコまれているものに弱いという学徒に典型的な症状を示しつつレーニンをあまり一生懸命読まなかった。

つまり私はその頃、興味を数珠つなぎに繋げているだけの調べ屋であったと思う。興味の対象がすでに社会的「議論」の所産であることを潜在的に嫌っていた。

そういえば院生の演習でふれた和泉式部の歌っていうのは難しかった。もっと一生懸命勉強すれば良かったよ、ぜんぜんわからなかった記憶がある。文学部というのは案外、学生の細かい興味の壁に抵抗されながらやっとのことで運営されているものだ。そういうことを知らない連中が学際とか多様性とか言ってさわいでいる。教師が自分の興味を突破しているだけでなく本気で本質を語る社会的な態度をつくりあげないとどうしようもない。大学院時代は、自分の窓をこさえることだけでなく、本質に対する態度を醸成することでないといけない。そうでないと、学者は容易にキャラクターとして病人扱いされるし、自ら病人であることを誇示してみずからを守ることにもなりかねない。

空海

2024-08-05 23:55:56 | 思想


 若狭の関谷川原という所は、比治川の水筋がありながら、ふだんは水がなくして大雨の時にばかり、一ぱいになって渡ることの出来ない困った川でありました。これも昔この村の老女が一人、川に出て洗濯しているおりに、僧空海が行脚して来てのどがかわいたので、水でも貰いたいとこの老女にいわれたところが、この村には飲み水がありませんと、すげなく断りました。それを非常に立腹して唱えごとをしてから川の水をことごとく地の下を流れて行くことになって、村ではなんの役にも立たぬ川になってしまったのだそうです。(若狭郡県志。福井県大飯郡青ノ郷村関屋)

――柳田國男「日本の傳説」


空海が儒教批判から始めなければならなかったように、たぶんわれわれもおなじことをしなければいけないような気がする。さっき熊沢蕃山よんでてそうおもった。


2024-08-04 23:47:27 | 文学


行者樹の枝に上り、かの金撃子を取て敲き落すに、たちまち地中に沈みけり。行者是を見て其奇なるを感じ、直綴の襟をひらきて、三個の葉を打おとし、懐にして立かへり、沙悟浄と八戒に分ちあたへ、皆悦んで是を吃ふ。一人の童子是を見て大きに驚き、忙ぎ三歳の前に走り来り、罵て申しけるは、「你が三人の弟子、吾師父の秘置き給ふ人参果を偸み吃ふ。你此事りたるか」三蔵聞きて驚いて曰く、「人参果とは、先に童子の賜りたる嬰子にてあらずや。吾が徒弟何の爲にかかる怪しき果を偸みくらへるや。只今吾これを糺すべし」とて大音に三人を呼び給へば、沙悟浄聞て申しけるは、「今師父の急に我々を呼給ふは、果して人参果の事なるべし」

だいたい弟子というのは100%不肖の輩である。彼らが師父になるのは、師父として生長するプロセスを踏んでからであって、弟子としてはやはり弟子止まりである。しかし、よのなか弟子と呼ばれずに師父の立場にありながら、もっと偉大な者に対しては、弟子でもなんでもない何者かになる。三蔵が案外我が儘だったりするのは、その危機を示している。教師は不安定だ。

例えばわたくしなんかも、教師×学者もどきをやっていると、誰かの影響を受けていると言われることは多いが、――最近では、やっていることがジジェクだろうと言われたし、昨日はまるでラカンだと言われた。しらないうちにそんな偉人に似ていたとは驚きだ。どっちかというと顔は高橋和巳を少年ぽくしたかんじなのに。

文フリでもらってきた、はなべとびすこ×田丸まひる「サイダーとアイス02」なんか、何者でもない感じがまだポジティブな傾向に覆われていて私とは雲泥の差だ。

かかるとき、先人達はどうしていたのか。例えば、危うい立場の不安定に対して、リストの「ハンガリー狂詩曲」は観衆の奴隷にならないために、全曲続けて一種のオペラみたいにきくとよい曲集として作られたとおもうのである。雑誌『談』のトライコトミー特集をよんだが、崩壊の過程である三角関係を、解放のプロセスとしての3人として再構成するがごときであった。こういうのを協働というのであろう。

むかし西原理恵子は、イチローは内野安打ばっかでたいしたことないと漫画で言っていた。たぶん西原はイチローの一人旅にたいして、自らの家族に呪われた三角、あるいは四角関係を対置していたのであろう。そういえば、わたくしも大谷も二刀流ばっかでたいしたことないと思ってたら、通訳に壮大に金を盗まれてたらしいという事で、金的というか西原的にもなにか文句のつけようがない境地に昇格している。というより、大谷も結婚して、通訳との二角形を三角形につくりなおして難局を乗り切ったと言ってよい。

研究も、三角形であるべきだ。若い頃、本に線をひっぱったり悪口を書きながら勉強したが、困ったのはレーニンの「哲学ノート」で、すでにレーニンによってヘーゲルとかの引用に「はっはっ!!」とか「弱い!」とか「??」とか書き込んであるのである。すでにツッコまれているものに弱いという学徒に典型的な症状を示しつつレーニンをわたくしはあまり一生懸命読まなかった。ここで、ツッコミにツッコミを入れるような根性があれば、ヘーゲル=レーニン=わたくしの三角形によって何かもっとすごいものが生じたのかも知れない。

三蔵の弟子も二人ではなく三人いたからいいのであろう。

真夏の夜の夢

2024-08-03 23:43:39 | 文学


 食事がすむと、妙にぼんやりしてしまった。「暫く此処に居てもいいだろう、」と彼は云った。「はあどうぞ、」と給仕は慌てたように答えながら、片方の眉尻を下げ口を少し歪めて、変な顔をした。彼は可笑しくなった。笑を押えて眼を円くしながら、彼はも一脚の椅子の上に足を投げ出した。見ると、向うの卓子の上の大きな硝子鉢に、金魚が四五匹はいっていた。馬鹿に大きな鰭と尾とを動かして悠長に泳いでいた。彼は立ち上って覗きに行った。上から覗き込むと、小さな嫌な金魚だった。横から硝子越しに見ると、大きな立派なものになった。彼は感心した、自分も金魚を飼って見たくなった。急いで給仕を呼んで勘定を済した。


――豊島与志雄「金魚」


「真夏の夜の夢 高松2024」というイベントが高松港あたりでやっていたので夫婦そろっていってきた。

SOLOーDUOというすごく巧いグループが演奏していた。音楽はいまでも着実に進化しているようであって、西洋音楽を稚拙に模倣する日本人、みたいな観念はもう安易に使えなくなっている。ただ、そういう観念を呼び寄せるケースと場所が作られてしまう場合があるだけである。クラシック音楽だって、FMの「現代の音楽」なんかを聴いてると、停滞感はない。現代音楽は行き詰まっているという観念が社会にあるだけだ。――もっとも、その観念は案外、業界の内部にいる者こそが持っている場合がある。文学がその良い例で、内部にいるといつも停滞感がすごい。で、読者が勝手にすばらしさを受け取って進化の担い手になる。

うまいギターの音はこちらに伝わり方が早く、高音なのに低音に聞こえたりする。こういうことだって文学においても起こらないとは限らない。

空に魚のタコをあげているのはフランスのパフォーマーであった。なんとなくフランスみたいだと思ったら実際そうであった。西洋建築のなかで飛んでいたら似合うかも知れない。日本ではどこかしら、屋台の金魚みたいなもののイメージが強すぎる。