スブドで行われている霊的修練ラティハンは、ただ”受けるだけ”であると言われています。
自分で受けて体験しないと分からない…これは私がしばしば触れている”直接的な道”ということです。
従ってそこには”教えも理論も無い”…実にごもっともなことです。しかしですねえ…
スブドの創始者バパ・スブーは生前、世界を股にかけて(会員たちのラティハンへの理解を深めるために)トーク(普通に講話でいいじゃないか!)を行ってきましたが、私にはバパは多分に”余計なおしゃべりをし過ぎた…”、又多くの人たちは”第二義以下に落ちてしまったものに容易く迎合して、余計な混乱を背負いこんでしまった…”という感は否めません。それはあくまで私の屈折した観方に過ぎないのかもしれませんが…この問題は改めて触れるとして…
”スブドのオープン(入門式のようなもの)。私はついに、あの至福の瞬間を取り戻す瞬間を迎えたのだ!”…なんて…
そういう風な期待というものは、三か月の待機期間中どこかへ行ってしまったのでした(笑)
”内なる生命、魂が目覚める”スブドの説明には確かにそういう事が書かれていました。又、古いスブドの文献ではそのオープンのことを”開魂(!)”と訳されていました。だが、別の説明では”人の思いを超えたヴァイブレーションに包まれ、最初は体の四肢などの動きが起こり、徐々に全身に広がり、やがて内面に…”といったような内容のものがありました。(世の中の真実というものとはこういうものです)
実際のオープンでは全くその修練の場である会館の部屋で、ただ数十分間突っ立っていただけで何も起きませんでした。
二回目の時に、数分経過したのち、”あれ、バランスを崩しそうだ”と感じた刹那、自分の意志と関係なしに歩き出したのです。こういう事は全く初めてのことなのでビックリしましたが、”ああ、成程こういうものか…”という感触を持ったのです。
ヴァイブレーション…内部感覚…これは実に数年間失われていたものでしたが、徐々に蘇って来たではありませんか!これは実に感謝せねばならない事です。
といっても、これはあくまで感覚的なことなので、ハッキリしたことは言えませんが、その数年前に芽生えたものとは微妙に違う感じもします。
ある面油断をするとバランス感覚を失う(意識が持っていかれる)ほど強力ではありますが、粗いというのか、あまり内面に深く浸透してくる感じはありません。
いずれにしてもラティハンとは、このある種の波動(ハタラキ的なもの〉の感応により、我々に元々備わっている生命力が呼び覚まされ、心身、意識の内奥にまで浸透し、本来の人間性を回復させることを目指しているものと言えるでしょう。この点で中国の気功や野口整体の活現運動などにも通じるものがあります。ただスブドの場合にはその背景にイスラームの影響があり、神へ至る道を標榜し、霊的進化という事が重要視されるのです。
これがラティハンは”受けるだけ”では済まなくなり、スブドが様々な試練に見舞われる要因となったと思われるのですが…
少なくとも私には、ラティハンは”受けるだけ”だったら別段何の問題も感じませんでした。一時期、仕事が手につかない程ハイな状態になり(別に精神的苦境になった訳じゃない〉、バランスを失いかけた事が有りましたが、その実修を通じてアブナイ、ヤバイと感じたことはほとんどありません。
ただ、そもそも私の入会の動機ともなっていたあの精神的目覚めのような事も一度もありませんでしたが…
又、そういう体験談というのも、話題自体もあまり聞いたことがありませんし、私自身封印されていた所為もあり、全く話す気が起こりませんでした。そういう土壌でなかったというべきでしょうか?
私はこのブログでしばしば”あるハタラキに捉えられて、思考も身体も機能を失い、ただ心身をそれにゆだねるしかない…”という事態のことを書いていますが、それは本質的には同じであっても、単に勝手に体が動き出すこととは、少しく違うニュアンスのものです。
前記のラティハンの説明に関して、とても誤解を受けそうな言葉が又あって、曰く”ラティハンを受けるには思考や感情や欲望がカラッポにならないとならない…”というのがあります。
”ンなもん、あーた、スブド人は皆おシャカ様か、人生がおシャカになってるでしょうよ!”
これはそれらが無くなるんじゃなくて、自分の意志で出来なくとも、自動的に抑えられるようになる事を言っているのです。それで勝手に自動運動が起こる訳ですが、止めようと思ったら自分の意志で止められます。
私が述べている事態というのはそれとは違って、抗し難くその内からの促しにゆだねざるを得なくもののことです。
それは、覚醒へと導かれるものを念頭に置いて書いているのです。
これは有体に言えば意識に浸透するかどうかの違いと言えるでしょう。
どのように導かれるかは意識の有り様というものが極めて重要な事でしょう。
スブドでも人によっては、この覚醒に導かれるケースもあるようですが、それが第一義的なものであれば、他人の出る幕でないので実際のところは分かりません。(又私は何分にもスブドを離れて26年くらいになるので現在のことは知らないのです)
何が第一義のものか? それはバパも知らない、あなたと私だけの真実…。
自分で受けて体験しないと分からない…これは私がしばしば触れている”直接的な道”ということです。
従ってそこには”教えも理論も無い”…実にごもっともなことです。しかしですねえ…
スブドの創始者バパ・スブーは生前、世界を股にかけて(会員たちのラティハンへの理解を深めるために)トーク(普通に講話でいいじゃないか!)を行ってきましたが、私にはバパは多分に”余計なおしゃべりをし過ぎた…”、又多くの人たちは”第二義以下に落ちてしまったものに容易く迎合して、余計な混乱を背負いこんでしまった…”という感は否めません。それはあくまで私の屈折した観方に過ぎないのかもしれませんが…この問題は改めて触れるとして…
”スブドのオープン(入門式のようなもの)。私はついに、あの至福の瞬間を取り戻す瞬間を迎えたのだ!”…なんて…
そういう風な期待というものは、三か月の待機期間中どこかへ行ってしまったのでした(笑)
”内なる生命、魂が目覚める”スブドの説明には確かにそういう事が書かれていました。又、古いスブドの文献ではそのオープンのことを”開魂(!)”と訳されていました。だが、別の説明では”人の思いを超えたヴァイブレーションに包まれ、最初は体の四肢などの動きが起こり、徐々に全身に広がり、やがて内面に…”といったような内容のものがありました。(世の中の真実というものとはこういうものです)
実際のオープンでは全くその修練の場である会館の部屋で、ただ数十分間突っ立っていただけで何も起きませんでした。
二回目の時に、数分経過したのち、”あれ、バランスを崩しそうだ”と感じた刹那、自分の意志と関係なしに歩き出したのです。こういう事は全く初めてのことなのでビックリしましたが、”ああ、成程こういうものか…”という感触を持ったのです。
ヴァイブレーション…内部感覚…これは実に数年間失われていたものでしたが、徐々に蘇って来たではありませんか!これは実に感謝せねばならない事です。
といっても、これはあくまで感覚的なことなので、ハッキリしたことは言えませんが、その数年前に芽生えたものとは微妙に違う感じもします。
ある面油断をするとバランス感覚を失う(意識が持っていかれる)ほど強力ではありますが、粗いというのか、あまり内面に深く浸透してくる感じはありません。
いずれにしてもラティハンとは、このある種の波動(ハタラキ的なもの〉の感応により、我々に元々備わっている生命力が呼び覚まされ、心身、意識の内奥にまで浸透し、本来の人間性を回復させることを目指しているものと言えるでしょう。この点で中国の気功や野口整体の活現運動などにも通じるものがあります。ただスブドの場合にはその背景にイスラームの影響があり、神へ至る道を標榜し、霊的進化という事が重要視されるのです。
これがラティハンは”受けるだけ”では済まなくなり、スブドが様々な試練に見舞われる要因となったと思われるのですが…
少なくとも私には、ラティハンは”受けるだけ”だったら別段何の問題も感じませんでした。一時期、仕事が手につかない程ハイな状態になり(別に精神的苦境になった訳じゃない〉、バランスを失いかけた事が有りましたが、その実修を通じてアブナイ、ヤバイと感じたことはほとんどありません。
ただ、そもそも私の入会の動機ともなっていたあの精神的目覚めのような事も一度もありませんでしたが…
又、そういう体験談というのも、話題自体もあまり聞いたことがありませんし、私自身封印されていた所為もあり、全く話す気が起こりませんでした。そういう土壌でなかったというべきでしょうか?
私はこのブログでしばしば”あるハタラキに捉えられて、思考も身体も機能を失い、ただ心身をそれにゆだねるしかない…”という事態のことを書いていますが、それは本質的には同じであっても、単に勝手に体が動き出すこととは、少しく違うニュアンスのものです。
前記のラティハンの説明に関して、とても誤解を受けそうな言葉が又あって、曰く”ラティハンを受けるには思考や感情や欲望がカラッポにならないとならない…”というのがあります。
”ンなもん、あーた、スブド人は皆おシャカ様か、人生がおシャカになってるでしょうよ!”
これはそれらが無くなるんじゃなくて、自分の意志で出来なくとも、自動的に抑えられるようになる事を言っているのです。それで勝手に自動運動が起こる訳ですが、止めようと思ったら自分の意志で止められます。
私が述べている事態というのはそれとは違って、抗し難くその内からの促しにゆだねざるを得なくもののことです。
それは、覚醒へと導かれるものを念頭に置いて書いているのです。
これは有体に言えば意識に浸透するかどうかの違いと言えるでしょう。
どのように導かれるかは意識の有り様というものが極めて重要な事でしょう。
スブドでも人によっては、この覚醒に導かれるケースもあるようですが、それが第一義的なものであれば、他人の出る幕でないので実際のところは分かりません。(又私は何分にもスブドを離れて26年くらいになるので現在のことは知らないのです)
何が第一義のものか? それはバパも知らない、あなたと私だけの真実…。