私がスブドに対し信頼を失ってしまっても、しばらく続けられたのは、その霊的修練ラティハンからは実害を被ったことはほとんどなく、それ自体善も悪も無い、ニュートラルなものと認識していたからです。
ところが…やがてその本来”受けるだけ”のものであるラティハンにも疑念がもたげるようになってしまいました。こうなると私の退会も時間の問題となってしまったのですが…
その疑念というのは…スブドに入り、ラティハンを受ける人には、何故こうもイスラームに感化されてしまうように見受けられる現象が生じるのか?ということです。
実際割礼までしてイスラームに入信してしまう人も居たし、そのラティハンの実習中にイスラーム風の礼拝を自動運動の過程でやり出す人、これはある種の異言現象と観てもいいかもしれませんが、それ風の祈りの言葉(多分本人は習っていないであろう異国語)を発する人が多く見られるのです。
私はこれはイスラーム=バパ教?がはびこり出したことと無関係じゃない、といった了見がもたげてきて、さらにスブドに対し疑心暗鬼になってしまったのでした。
ただ私自身にそういうものが発現したことは一度もありませんでしたが…
もっとも、こういう事というのは、所変われば、綽変わるじゃないですが、各宗教的背景に応じたヴァリエーションが見られるものです。
私が初めてこの種の霊的礼拝に接した、キリスト教の聖霊のバプテスマを強調する集会には紛れも無い本家?の異言(何語か所説が有る)が見られました(そもそもの異言の名の由来は新約聖書の使徒行伝やパウロの書簡に由るものです)。ついでに言うと私がもっと魂消たのは、自然発生的に誰がリードしているのか、統制のとれた異言的コーラス!が起きた事でした。
又、神道系の(これはずっと穏やかな、和やかなムードで行われる)礼拝では、帰神した祭主から自ずと口を切られるのは当然のことながら大和言葉の歌です。周囲からそれに応えるかのように(霊なる返し歌?)口が切られたりします。
世間では奇異に感じられるであろう、こうした霊的礼拝(総称してこのように呼ばせて頂きます)というものは、表向きの宗教に隠れた裏側の礼拝?として広く息づいているものなのです。
これには上記したような自然的、無為的身体運動、発声などが表れるのが特徴と言えるでしょう。(あくまで付帯的に表れるのであって、現象面に捉われるべきではありません)
では、ラティハンによく似た我が国に生まれた活現などの健康法では何故、異言現象などは見られないのか?(”ウー”とか”オー”とか擬音以外私はそれらしきものに接したことがありません)単純に考えればそれは宗教的背景を有していないからでしょう。
(私の場合、特定の宗教を奉じていなかったためか、スブドと同じくその色?を持ったものの発現は無かったのです。今のところ)
という事は…見えない領域に根差したものと言えど、見える世界の宗教と同じくそこには相対性というものがある、という事を物語っているのではないでしょうか? そしてそこにはそれらを越えるものが有るという事を示唆していると言えるでしょう。
よくよく考えてみれば、これは我々の意識の有り様に応じてヴァリエーションが表れている訳で、その表れの根底に一つに貫かれているものを見出すことが出来るでしょう。それはヴァイブレーション、命のハタラキであったり、諸々の心身の締め付け、縛りからの解放感であったり、本来の自分らしさの回復であったり…するでしょう。
これは、相対的な観念的な次元を超えて、誰でも感受出来るものです。
これはやはりニュートラルなものだと言わざるを得ません。ここに普遍性というものが開かれているのです。(これは往々見られるのですが、あまり自派の相対的特性を強調するとこの事を見えなくしてしまうでしょう。前記したことでも私はあまり本質的でない事に捉われていたと言えます)
それは又、一人一人に道は開かれているという事です。(この事はスブドでも強調されていたハズなのです)
何にせよ意識の有り様というものが実に重要と言えます。
そして、内なるものに意識があれば、つまるところ真我というか、”我ならぬ我”といったものに結びつかざるを得ないでしょう。(感じ方はそれぞれですが…)
生けるハタラキは自己の現存を照らし、浸透してゆくものだから…
ところが…やがてその本来”受けるだけ”のものであるラティハンにも疑念がもたげるようになってしまいました。こうなると私の退会も時間の問題となってしまったのですが…
その疑念というのは…スブドに入り、ラティハンを受ける人には、何故こうもイスラームに感化されてしまうように見受けられる現象が生じるのか?ということです。
実際割礼までしてイスラームに入信してしまう人も居たし、そのラティハンの実習中にイスラーム風の礼拝を自動運動の過程でやり出す人、これはある種の異言現象と観てもいいかもしれませんが、それ風の祈りの言葉(多分本人は習っていないであろう異国語)を発する人が多く見られるのです。
私はこれはイスラーム=バパ教?がはびこり出したことと無関係じゃない、といった了見がもたげてきて、さらにスブドに対し疑心暗鬼になってしまったのでした。
ただ私自身にそういうものが発現したことは一度もありませんでしたが…
もっとも、こういう事というのは、所変われば、綽変わるじゃないですが、各宗教的背景に応じたヴァリエーションが見られるものです。
私が初めてこの種の霊的礼拝に接した、キリスト教の聖霊のバプテスマを強調する集会には紛れも無い本家?の異言(何語か所説が有る)が見られました(そもそもの異言の名の由来は新約聖書の使徒行伝やパウロの書簡に由るものです)。ついでに言うと私がもっと魂消たのは、自然発生的に誰がリードしているのか、統制のとれた異言的コーラス!が起きた事でした。
又、神道系の(これはずっと穏やかな、和やかなムードで行われる)礼拝では、帰神した祭主から自ずと口を切られるのは当然のことながら大和言葉の歌です。周囲からそれに応えるかのように(霊なる返し歌?)口が切られたりします。
世間では奇異に感じられるであろう、こうした霊的礼拝(総称してこのように呼ばせて頂きます)というものは、表向きの宗教に隠れた裏側の礼拝?として広く息づいているものなのです。
これには上記したような自然的、無為的身体運動、発声などが表れるのが特徴と言えるでしょう。(あくまで付帯的に表れるのであって、現象面に捉われるべきではありません)
では、ラティハンによく似た我が国に生まれた活現などの健康法では何故、異言現象などは見られないのか?(”ウー”とか”オー”とか擬音以外私はそれらしきものに接したことがありません)単純に考えればそれは宗教的背景を有していないからでしょう。
(私の場合、特定の宗教を奉じていなかったためか、スブドと同じくその色?を持ったものの発現は無かったのです。今のところ)
という事は…見えない領域に根差したものと言えど、見える世界の宗教と同じくそこには相対性というものがある、という事を物語っているのではないでしょうか? そしてそこにはそれらを越えるものが有るという事を示唆していると言えるでしょう。
よくよく考えてみれば、これは我々の意識の有り様に応じてヴァリエーションが表れている訳で、その表れの根底に一つに貫かれているものを見出すことが出来るでしょう。それはヴァイブレーション、命のハタラキであったり、諸々の心身の締め付け、縛りからの解放感であったり、本来の自分らしさの回復であったり…するでしょう。
これは、相対的な観念的な次元を超えて、誰でも感受出来るものです。
これはやはりニュートラルなものだと言わざるを得ません。ここに普遍性というものが開かれているのです。(これは往々見られるのですが、あまり自派の相対的特性を強調するとこの事を見えなくしてしまうでしょう。前記したことでも私はあまり本質的でない事に捉われていたと言えます)
それは又、一人一人に道は開かれているという事です。(この事はスブドでも強調されていたハズなのです)
何にせよ意識の有り様というものが実に重要と言えます。
そして、内なるものに意識があれば、つまるところ真我というか、”我ならぬ我”といったものに結びつかざるを得ないでしょう。(感じ方はそれぞれですが…)
生けるハタラキは自己の現存を照らし、浸透してゆくものだから…