人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

左に伝えられたことを右に伝えるなかれ

2017-03-04 16:08:27 | 哲学・思想
「左に伝えられたことを右に伝えるなかれ」
という格言を御存じないですか? 知らない? こんな重要な格言なのに…
え…それを言うなら「右でやることを左に知らせるなかれ」(マタイ伝6章)だろ…って…
ホ、ホンマや…調べてみたら、これは何でも「人に見せびらかすように善行などをするな…」って意味らしいですね…。チーとも知らんかった!
というか、今までずっとウル覚えだった、意味も分からず…左右も逆でんがな。
しっかし…誰が何と言おうと、私はこのデタラメ格言をずっと肝に銘じて生きてきたんです!
ちなみに私の裏ウイキペディアによれば…
「裏側で伝えられ知ったことを表側にそのままで伝えてはならない」という意味なのです(これは見えざる導師のお告げ?)。見える世界と見えない世界のことを混同してはならない、混乱のもとになるから…ということです。
とにかく、このブログで度々触れているように、スピとか精神的な道においては実に決めつけたような言辞で溢れかえっていますねえ…。
「私はいない、全体しかない」とか、さも見てきたように、動かざる真理であるかのように語られていますが、そんなもん見えないでしょ? そう決まっている何かでもあるんでしょうか?…現実世界ではもう、ゴマンとありますよ。だからかくも世界は混迷、不調和で満ちているのです!
客観的に正しいものや、確たる真理というものがあるものと思い込んでいるのです。
確たるものでないと信じられない、そしてお節介にも他に伝えるには、ここで書いているよな掴みどころのない言説でなく、OO論とか何々主義とかに依拠しなければなりません。そして収拾がつかないくらいいくつもの真理が争い合っているのです。
又、私は所謂オカルト的なもの…前世とか霊界とか未来予言のことなど否定してませんし、それと思しきものにも触れても居ます。だがそれはそのまま生の形でこの世の流儀で見てきたように、実際にあるかのように言い表すことは決して出来ないはずのものです。
いやもう、ホントに精神世界は空想家、妄想家天国です!そんなに自分が信じたものに精神をずっと呪縛されたいのだろうか?…こうなると天国だか地獄だか分かりゃしません!
あなたが本当にそうしたものを知りたければ、あなた自身が直接見て、感じて知ったらいいでしょ!
もっとも見れるものかどうかは分かりませんが、ホントーに”これは疑いようがない!”と実感するものは、見ることが出来ません!
それは”こう、こう、こーゆ―もの”といい表すことが出来ないのです。確かにそこで”個はない、全体しかない”と感じざるを得ないような状況というものはあります。
だけどねえ…そう決められるものなど何もありません! 多くの経験者が異口同音に語る”言葉で伝えられないこと”というのはそういう事です。
だったら、安易に不用意に決めつけなきゃいいのだけの話です。裏側にはそんなものは何も無い! 表側にそれがそのまま伝わる訳が無いのです!
だけれども…見なくともリアルに疑う事の出来ない(本当に出来ない)確信めいたものはある!それは何か?
”言えるか!”…これ以上ないような第一義のものを二義以下のものに貶めてしまう事なぞ出来る訳無いでしょうが…見えない事を分かったように、決めつけたように言いまくることが、如何に内実性というものを空疎なものにしているか知るべきなのです。
内実とはそれ自体のもので、言葉や形に置き換えられないもののことです。だから”こうです!”と断じた瞬間、スルリとそのものでなくなって、いかな神的なものでも、紙みたいなものにスリ変わってしまうのです。
第一義のものとはあなた以外の誰も与り知れないものです。
二義以下に堕ちるとは、自分以外の客観に堕ちることと言ってもいいでしょう。これは自己の内に確信出来るものを見出せない、信頼出来ないところから来ます。
左に伝えられたものは自分が使役して右に伝え、他に証することは出来ない…そうすると伝えられたもの自体を失う事になります。
自己を超えたもの、伝わるもの自らが自己顕現して、証をすることでしょう。

私は左で聖書の格言をイイカゲンに聞いて、どっかで”見えざる導師のお告げ”みたいになっていますが、案外この格言の密意だったりして…おおっと、右には知らせませんよ…。







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