人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
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スブド❹ーカルトと普遍性ー

2017-03-19 00:37:05 | 秘教、その他団体
何年か前、アメリカのカルト的新宗教について書かれている本の中で、スブドはこの分類で扱われているのを目にしたことがあります。
関係者たちはどう思っているかはともかく、スブドはこのように見なされている向きも少なくないようです。
私自身は…ある面カルト的なものを感じています。といってもそれは組織立った所謂洗脳カルトとは全く違う意味でです。スブドは組織的には全く弱く、それらにありがちな不当な金品の要求といったことも無く、会員を無理に組織に縛りつける事も有りません。
私がカルト的に感じていることとは、自分たちだけにしか通じないような観念を信じているように見受けられる点にあります。カルトというのは広い普遍的世界から引き離され、浮いているものなのです。
これは多かれ少なかれ宗教団体には”普遍的に”内包している問題ですが、スブドは自ら”宗教では無い”と主張しているのです。
でも私はスブドとの関わりで公然と宗教を名乗る団体にも増して、その特有の観念が支配し、通気性を悪くしているのを感じた事があるのです。
私には多くのスブドの人たちは、表の意識の上では、宗教ではない何ものかを設えつつも、その何ものかに宗教を代用させていたという印象に映りました。宗教でなければ、捉われる必要も無いバパの一個人的観点からの言葉も、疑似宗教?では、金科玉条の如く信奉されてしまうのです。そして教祖に肖りたい信者が後を絶たなく現れます。
もっとも中にはそうした観念から自由な人も必ず居ると私は信じていますが(最近のことは知りません)、こういう事は甚だ迷惑な話で、彼らにはあてはまらない事であるのは言うまでもありません。

スブドにはまず自分たち(あとイスラム)にしか通じない”公用語”というのが多々有ります。例えば…”ジワ”、”ナフス”…一体何のことだかわかりますか?
これは実は(私が間違っていなければ)それぞれ”人間の本質性、本来性”、”後天的な自我性”についての表現であり、これは広く普遍的精神世界に通底した内容を示していると言えます。何も問題ないですが、何やら秘密の暗号みたいでカルトと思われかねません。
では、これはどうだろうか…”ブッダはサイト・アンガスのイキがかかっており、啓示宗教(これを”公用語”で何と言うか忘れました)の流れを汲むスブドとは相容れない…”
これが一体どういう意味が有って、何が問題であるかは、おそらく広い普遍世界では何の問題にもならないことでしょう。ただし仏教徒であるスブド会員には由々しき問題です。(バパが何かの本で述べていたこの内容については…深く探る気にもならないこともあってサッパリ分かりません。と言うか、どうでもいいです)
又、スブドで広く信じられていたのは、暗黒思想色の一際濃い、人間の魂のレベルに関する疑似?教説(スブドには教義が無いハズ)で、鉱物、植物、動物ときて4段階目でやっと人間のレベルになれるというのです。そこまで達していないのは人間モドキってことなんでしょうか? この上に3段階あり、修練により高次に上がって7段目の神のレベルに至る、というものです。
こういう教えは、イスラム神秘主義スーフィーにも、ユダヤのカバラー、あるいは近代に生まれた神智学などにも似たものを見出しますが、何かが欠落すると精神的混乱、分裂を引き起こす要因となります。
しかし、こういった特有の観念に纏わる話というものは、”受けるだけ”のラティハンの道においては何の問題にもなりません。
普遍から切り離された観念は、それを信じたい人だけが勝手に執心していればいいだけの話です。どこに行き着くのかはともかく…
ラティハンは確かにこの世の常識を超えた、奇妙で規格外の修練と言えます。
でも私はそれだけの理由でスブドをカルト団体とみなす気はありません。前述したようにカルトを支配しているのは普遍性から浮いた特有の観念だからです。そして私はそれが如何に突拍子のないものに映ろうと、ラティハンにはある普遍性をも認めています。
ここでスブドにカルト的な観方と違うものが生まれるのです。
私がずっと使っているこの普遍性という表現ですが、これを二重の意味で使っているのです。一つは普通にコモン・センスとして認識されているようなもの…もう一つはある面このコモン・センスを作り出している意識の源泉的なもの、ある面では客観的世界に映るそれとは何の関係も持たない我々の内なる普遍性のことです。これは勿論、人によって観方、感じ方というものが有ります。
しかし、それは各人が直接向き合うべき性質のものです。何か対象化された教えを奉じるということは、二義以下のものと言わねばなりません。
全ての人間にその契機が与えられている点で普遍的に開かれていると言えるでしょう。
そして、各人の内面に開示するもの…それは、それぞれの観方、感じ方に応じて等しく、言葉を超えて、普遍性に開かれているものかもしれないのです。

それにしても、私はこのように言いたい放題スブドについて書いている訳ですが、もう20数年間離れているのに何で又時に同調するような事書かされているのかしら?…これが普遍的ってことなんでしょうか?

コメント
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