ある日、自称スピリチュアル・ヒーラーの先生が頼みもしないのに私にその”見えない教え”を垂れてきたことが有りました。
私はただ知人に誘われてその先生の集まりに参じただけで、別段教えを受けに来たわけでは無かったのです。
私には、その先生の弟子であるその知人(自称気功師)が言っている事の方に共感していたのですが、その先生にゃちっとも共感しなかったのです。
というのも、”私にはインド系かなんかの霊的なヒーラーが居て…その患者のカルマはああで、前世の因縁はこうこうで…”というその筋ではよく聞かれるような話(ちっとも見えんがな!)を、さも”私が教えているんだから、教わる君たちはしっかり聞きなさい!”という態度アリアリで話していたからです。
何故、その弟子の方に共感していたかと言うと、その人は常々”私が癒す訳じゃない、ただ自然に気の流れにまかせるだけなの…教えるも教わるも無いの…持ちつ持たれつなんだから…”と言っていたからです。
ところが、何でこんな無為に向いているような人がその師の前だと”はーっ…先生、先生!”となってしまうのか、私にはトンと理解出来なかったのです。
私はその先生の余計なお世話のような”み教え”にカチんと来て、ついにこう言い放ったのです!
「アンタは霊界だとか、前世だとかフツーの人が理解出来ないような事言って、煙に巻いて人心を操作しようとしているんだろ!」
すると先生「私は事実を言っているだけなんだけどねえ…」
「バカ言ってんじゃない!…あの世とか前世なんて、この現実の事実とは何の関係もないだろ!」とすかさず返す私…”おい、自称気功師、アンタも何か言えよ!”と言いたかったのですが、その人はその険悪なムードの中でオロオロしているばかりなのでした…
この時、私に想起されたのが、D会のM女史との交流のことでした。
何度か直接女史と差し迎えで対したことがありましたが、形としてはどうしても私の方が教わるという姿勢は有ったものの、女史の方からはいつも教える、教わるという立場を超えた、自由な交流に導こうとしていたのです。
女史自身には、D会の根幹となっているM師を通して開かれた”大調和世界観”というものが絶対的居り場のようになっていましたが、そのことを私に向ける事は無かったのです。あくまで私が自然な形でその世界を受け容れるようになることにゆだねていたのです。
そして…「あなたはどうなんですか!ご自分の口でご自分のことばでおっしゃって下さい!」と、どこまでも私に主体を持たせるように促していました。
そうすると自分自身にも女史にも信頼感が生まれ、いつのまにか、どういう訳か(これは何とも言い表しがたいことなんですが)…自分も消えて、対自している女史も消えてしまうような感じになってしまうのです。
一対一の人格的交わりでありながら、そこに一つの生きたものが通る…ハタラキが現臨して来る…そこから離れた霊界とか四次元の話など入る余地などこれっぽちもありません! 現臨というのは正にこういう事なのです。
思考があちこち馳せ飛んでいるところに、リアルなものに覚めるという事は無いのです。
そして一方から他方への意志的、人為的ハタラキかけ、心理的暗示、人心の操作、ある種の力の行使…精神世界にいつも取り巻いている、こうしたもの…支配や隷属的意識が介在する関係からはお互いの真の信頼、実存的出会い、交流というものは生まれません。
そして、見える存在は見えざるハタラキの媒体となり、その現臨としてのハタラキ自体との実存的交わり、又人と人との実存的共同的関係の生まれる契機となるのです。
こういう機会を与えられたことは実に感謝に絶えないものがあります。
私は先のヒーラーの先生にこのことを少し話してみたところ、いつのまにかお互い共感しあえるようになりました。彼にも何か覚えられているものがあったのでしょう。
最初から”教えたがり病”は出さなきゃあいいのに…職業病なんでしょうかねえ…。
私はただ知人に誘われてその先生の集まりに参じただけで、別段教えを受けに来たわけでは無かったのです。
私には、その先生の弟子であるその知人(自称気功師)が言っている事の方に共感していたのですが、その先生にゃちっとも共感しなかったのです。
というのも、”私にはインド系かなんかの霊的なヒーラーが居て…その患者のカルマはああで、前世の因縁はこうこうで…”というその筋ではよく聞かれるような話(ちっとも見えんがな!)を、さも”私が教えているんだから、教わる君たちはしっかり聞きなさい!”という態度アリアリで話していたからです。
何故、その弟子の方に共感していたかと言うと、その人は常々”私が癒す訳じゃない、ただ自然に気の流れにまかせるだけなの…教えるも教わるも無いの…持ちつ持たれつなんだから…”と言っていたからです。
ところが、何でこんな無為に向いているような人がその師の前だと”はーっ…先生、先生!”となってしまうのか、私にはトンと理解出来なかったのです。
私はその先生の余計なお世話のような”み教え”にカチんと来て、ついにこう言い放ったのです!
「アンタは霊界だとか、前世だとかフツーの人が理解出来ないような事言って、煙に巻いて人心を操作しようとしているんだろ!」
すると先生「私は事実を言っているだけなんだけどねえ…」
「バカ言ってんじゃない!…あの世とか前世なんて、この現実の事実とは何の関係もないだろ!」とすかさず返す私…”おい、自称気功師、アンタも何か言えよ!”と言いたかったのですが、その人はその険悪なムードの中でオロオロしているばかりなのでした…
この時、私に想起されたのが、D会のM女史との交流のことでした。
何度か直接女史と差し迎えで対したことがありましたが、形としてはどうしても私の方が教わるという姿勢は有ったものの、女史の方からはいつも教える、教わるという立場を超えた、自由な交流に導こうとしていたのです。
女史自身には、D会の根幹となっているM師を通して開かれた”大調和世界観”というものが絶対的居り場のようになっていましたが、そのことを私に向ける事は無かったのです。あくまで私が自然な形でその世界を受け容れるようになることにゆだねていたのです。
そして…「あなたはどうなんですか!ご自分の口でご自分のことばでおっしゃって下さい!」と、どこまでも私に主体を持たせるように促していました。
そうすると自分自身にも女史にも信頼感が生まれ、いつのまにか、どういう訳か(これは何とも言い表しがたいことなんですが)…自分も消えて、対自している女史も消えてしまうような感じになってしまうのです。
一対一の人格的交わりでありながら、そこに一つの生きたものが通る…ハタラキが現臨して来る…そこから離れた霊界とか四次元の話など入る余地などこれっぽちもありません! 現臨というのは正にこういう事なのです。
思考があちこち馳せ飛んでいるところに、リアルなものに覚めるという事は無いのです。
そして一方から他方への意志的、人為的ハタラキかけ、心理的暗示、人心の操作、ある種の力の行使…精神世界にいつも取り巻いている、こうしたもの…支配や隷属的意識が介在する関係からはお互いの真の信頼、実存的出会い、交流というものは生まれません。
そして、見える存在は見えざるハタラキの媒体となり、その現臨としてのハタラキ自体との実存的交わり、又人と人との実存的共同的関係の生まれる契機となるのです。
こういう機会を与えられたことは実に感謝に絶えないものがあります。
私は先のヒーラーの先生にこのことを少し話してみたところ、いつのまにかお互い共感しあえるようになりました。彼にも何か覚えられているものがあったのでしょう。
最初から”教えたがり病”は出さなきゃあいいのに…職業病なんでしょうかねえ…。