人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ここからここへ

2017-05-02 10:50:46 | 人生の教師
昭和52年の晩秋の頃でしたか、五井先生の「愛すること」という本を呼んでいる時、どこをどう読んでそうなったのか、思わず涙がこぼれてきたことがありました。
以前にも書いたことですが、この事が私が精神的な道を歩み出すことの原点だったとも言えるのです。
とにかく神というのは、自分と遠くかけ離れたところに居るものでなく、ずっと我々の間近に在って守り導いてくださるものであり、愛そのものである、ということを知らしめられたのです。これは理屈でなく、そういうものだから、そういうことになったということなのでしょう。
五井先生と言えば、ご存じのとおり大きな新宗教の教祖さんであり、「世界平和の祈り」の提唱者です。こういう世界には付き物とも言えることですが、その信者の中には、随分とアレコレと捉われを背負いこんでいる人も見受けられます。
あの祈りの文言のとおり祈らなければならない、そこにこそ効能?があるんだとか…神は万能だからといって、人々の都合に合わせて効いてくれるとは限りません。
又、ずっとあの信者にはよく知られている、お祈りとお浄めと統一行を兼ねたテープを聞かなければならない、と思いこんでいる向きもあります。
その理由はイロイロなところにイロイロな霊が居て、アブナイからだとか…
霊の障りみたいなものを恐れているようですが、捉われるから思いが障るのです。第一、障らないため、捉われないために祈るんでしょうが…
祈るにはいちいちリコーダー(古い!私はテープというのは、今だにそれで聞くものだと思っているのです!)を持ち歩かなければならないのか…”電源は…アッ、電池が切れた!…電気屋が…無い!…”
一体、危急存亡の時とか、とっさに見えざる領域と交渉しなければならない時(テープに頼っている人には分からんでしょうけど…)とか、どうするんでしょうか?
果たして五井先生が教えていたのは、こういうことだったでしょうか?…捉われを持たせることなく、”自由に、楽におやんなさい”、ということだったのではないですか?
実は、五井先生は、随所で「世界平和の祈り」が面倒くさい、間に合わない時は「”五井先生”を呼びなさい!」と言っていました。
これは、どういうことなんでしょうか?…阿弥陀仏を唱えるように五井先生を称名することなんでしょうか?
すると、見えざる五井先生が降臨するんでしょうか?…私には経験が無いので分かりません。
ただ見えざる導きにパッと意識を向けると、パッとそういうものが臨在するというか、それに包まれてしまう事は知らされています。
そういうものの強烈な体験があるので身に覚えているのです!
何分、それは五井先生のような見える?導師でないので、守護霊なのか、ハイアーセルフなのかどういう存在なのかは分かりません(いちいち詮索もしません。捉われるから!)。ただ、ある感覚を通じて呼び覚まされるのです。
想像ですが、五井先生に間近に接していて、先生を通じて言葉を超えたハタラキを実感したことのある人、あるいはそうでなくとも先生と縁の深い人なら先生を呼ぶとあるいは、”パッと…”という事もあるのかもしれません。
これは、具体的な臨在感のようなものと共にあるということなのでしょう。そして本当は名を呼ぶとかという事というより、意識が向けられると、そうなるという事を表していると思います。それは又思いを超えるという事でもあります。
このように五井先生自身は形としての「世界平和の祈り」というものには捉われていなかったと思います。
とにかく、思いを神の中に入れる、そうすると思いが超えられる…元々神的なものの中に居る事に気付く…という事を主眼にしていたのではないでしょうか?
こういう事は、本当に相対的な宗教的有り様を超えて、普遍的にどの宗教においても根本にあるものであり、そこに行き着き、帰っていくものでしょう。
世界平和とは一人一人が内に平安を見出した時に開示されるものでしょう。ここから外れてはあり得ないのです!
よくよく考えてみれば、私の原点においてそういうものに遭わされていた、ということを感じざるを得ません。
これまで様々な紆余曲折が有ったように感じてはいても、結局はここからは外れることが出来ない、という事を身に覚えさせられているばかりです。

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