私が何でここでブログなんぞを書いているのか…
それは一口じゃ言えないものが有ります。毎回違う事言わなきゃなりません。(笑)
精神的な道に関してですが、一つにはこの世から宗教とかスピ屋とか自称覚者など居なくなって欲しい、という願いのもとに書いていたりします。
こういうものが存在しているということは、そこに何かを教える人、従わせようとしている人と、追従、従属している人が居るということです。
お追従すべき人間は特別視され、崇められますが、自分自身は内心何の価値も無いように思っていて全く信頼していません。
ところが教師に従属することで、神サマの付属品みたいに思えて、にわかにエラくなったように感じ出します。
そして何かと人を従えたがる教師も又ある力に隷属していて、その力を行使する相手を必要とします。
つまり依存する人間に依存しなければならないのです。
この関係は教師と追従者との共依存の関係と観ることが出来ます。
ああ…考えただけでも息苦しくなりそう…人間てそんなに不自由でいたいものなのだろうか?
それは自分の本心の発露なんでしょうか?
こうしたところからは、私の、我々の本当に自由な、障りなく生きれる世界、調和世界というものは開かれることがありません。
それぞれが一コの独立した人間でありつつ、すべてを共有出来る世界は生まれ出てこないでしょう。
こんなこと言うと、非二元カブレの人は、”独立した人間など居ないよん!”などと宣うのでしょうが、その多くは非二元教師にお追従しているばかりではないでしょうか?
その他、”私は神そのもの…我即神…既に悟っている”実際に自分がそんな心境になっている訳でも無いのに、教師、覚者の言説の丸呑み、迎合…これは他への寄生、他からの盗用でなくてなんであろう。彼らは心に無いような、使い古した、借り物の言葉を平然と言う…あの現臨の前でそんなことが言えるのだろうか…(もし、”私は他人の言葉をオウム返しすることしか出来無い、無知蒙昧です!”という居直りなら…
何十倍も価値が有るし、光輝いているし、生きたものとなります。心底に根付いているものが伝わってきますから…)
そして又五次元だか六次元だか、頭の中だけでトンでる話が盛られたりしますが、それは言葉の世界に支配された平面的、二次元世界から一歩も出ていないのです。
こういう有り様のものを思考停止などと言ったりしますが、思考が無くなっているのではなく、まるっきりある思念への隷属なのです。
この共依存関係の周囲には思念が蔓延しているのです。
強固な思念体が神に成り代わって、”思凝神”がその結びつきを強めて行きます。
ネットなどを通じて信者たちは、この思念ばかり拡散するので、どんどんこの疑似神は増幅されていきます。
しかしながら、このベタベタお追従というものと、共感したこと、共感に根差したことを伝えることとは全く意味合いは違います。
共感というものは自分自身の中から出てくるものだから…
そして又、こういうお追従ばかりしていた人が、忽然とその迷いから覚めたことを表明されるならば、どれだけこの思念に覆われた世界に風穴が開けられ、啓蒙に関与することになるか、計り知れないものが有ろうというものです。
このこと自体、思念を超えて、光が差し込んでくることの証ともなり得ます。
それは信じている何か、思われている何か、部分的に従属している何かでは無くて、独一無二の自己の証なのです!
私は勿論スピ教師でもなんでもなく、このブログで何かを教えるつもりもなく、好き勝手なことを書いているに過ぎないのです。
もっともブログを始めた当初はそういう要らん気持ちもあって、そういう事を書いてきたかもしれません。
ただ、そういう気持ちを吹っ切りたい、という気持ちが強くあったのも確かな事です。
だってねえ…人生の裏側っていうのは、どんなクダラン、ツマラン人間にも開かれているんですからねえ…そういう人間が感じた事をなるべくありのままに書きたいと思っている次第なのです。
何処にでもいるフツーの人間にも…何て心にも思ってないことはよう言わんですが…
”こんなヘンテコな人間が他に居てたまるか!”ってんですよ!
そんな訳で今日も本当のことを書いてみました!…今日”は”だったか…?
それは一口じゃ言えないものが有ります。毎回違う事言わなきゃなりません。(笑)
精神的な道に関してですが、一つにはこの世から宗教とかスピ屋とか自称覚者など居なくなって欲しい、という願いのもとに書いていたりします。
こういうものが存在しているということは、そこに何かを教える人、従わせようとしている人と、追従、従属している人が居るということです。
お追従すべき人間は特別視され、崇められますが、自分自身は内心何の価値も無いように思っていて全く信頼していません。
ところが教師に従属することで、神サマの付属品みたいに思えて、にわかにエラくなったように感じ出します。
そして何かと人を従えたがる教師も又ある力に隷属していて、その力を行使する相手を必要とします。
つまり依存する人間に依存しなければならないのです。
この関係は教師と追従者との共依存の関係と観ることが出来ます。
ああ…考えただけでも息苦しくなりそう…人間てそんなに不自由でいたいものなのだろうか?
それは自分の本心の発露なんでしょうか?
こうしたところからは、私の、我々の本当に自由な、障りなく生きれる世界、調和世界というものは開かれることがありません。
それぞれが一コの独立した人間でありつつ、すべてを共有出来る世界は生まれ出てこないでしょう。
こんなこと言うと、非二元カブレの人は、”独立した人間など居ないよん!”などと宣うのでしょうが、その多くは非二元教師にお追従しているばかりではないでしょうか?
その他、”私は神そのもの…我即神…既に悟っている”実際に自分がそんな心境になっている訳でも無いのに、教師、覚者の言説の丸呑み、迎合…これは他への寄生、他からの盗用でなくてなんであろう。彼らは心に無いような、使い古した、借り物の言葉を平然と言う…あの現臨の前でそんなことが言えるのだろうか…(もし、”私は他人の言葉をオウム返しすることしか出来無い、無知蒙昧です!”という居直りなら…
何十倍も価値が有るし、光輝いているし、生きたものとなります。心底に根付いているものが伝わってきますから…)
そして又五次元だか六次元だか、頭の中だけでトンでる話が盛られたりしますが、それは言葉の世界に支配された平面的、二次元世界から一歩も出ていないのです。
こういう有り様のものを思考停止などと言ったりしますが、思考が無くなっているのではなく、まるっきりある思念への隷属なのです。
この共依存関係の周囲には思念が蔓延しているのです。
強固な思念体が神に成り代わって、”思凝神”がその結びつきを強めて行きます。
ネットなどを通じて信者たちは、この思念ばかり拡散するので、どんどんこの疑似神は増幅されていきます。
しかしながら、このベタベタお追従というものと、共感したこと、共感に根差したことを伝えることとは全く意味合いは違います。
共感というものは自分自身の中から出てくるものだから…
そして又、こういうお追従ばかりしていた人が、忽然とその迷いから覚めたことを表明されるならば、どれだけこの思念に覆われた世界に風穴が開けられ、啓蒙に関与することになるか、計り知れないものが有ろうというものです。
このこと自体、思念を超えて、光が差し込んでくることの証ともなり得ます。
それは信じている何か、思われている何か、部分的に従属している何かでは無くて、独一無二の自己の証なのです!
私は勿論スピ教師でもなんでもなく、このブログで何かを教えるつもりもなく、好き勝手なことを書いているに過ぎないのです。
もっともブログを始めた当初はそういう要らん気持ちもあって、そういう事を書いてきたかもしれません。
ただ、そういう気持ちを吹っ切りたい、という気持ちが強くあったのも確かな事です。
だってねえ…人生の裏側っていうのは、どんなクダラン、ツマラン人間にも開かれているんですからねえ…そういう人間が感じた事をなるべくありのままに書きたいと思っている次第なのです。
何処にでもいるフツーの人間にも…何て心にも思ってないことはよう言わんですが…
”こんなヘンテコな人間が他に居てたまるか!”ってんですよ!
そんな訳で今日も本当のことを書いてみました!…今日”は”だったか…?