ラマナ・マハルシは”私は誰か?”と尋ね続けて行けば、真我に突き当たる、という真我探究の道を推奨していました。
しかし、私はほとんどこの道を試みたことがありません。
試みようとすると、すぐ雑念が浮かび初め、何度もその問いかけからそれてしまうのです。
”私は、私は…晩飯は…私は焼肉…”…こんな訳で私は”私はマインド”からちっとも進みそうにないのです(笑)
この道には強い意志力が必要なのではないですか? そう考えるのは私の表層的理解なんでしょうか?…私にはラマナが単なる意志力を用いた修行を教えたとは思えないのですが…
それと、こんな塩梅なので深い境地になったことが無いのですが、”私は…”と問うている”私”がずっと残り続けるような気がします。
それとも、どっかでその私は消えるんですか? 多分そうでしょう。
どっかで”明け渡し”というものが有るに違いない…ラマナはもう一つ、それに導く帰依の道をも推奨していました。
どっちみち明け渡さなければならないのでしょう。根気、機根の無いダメな私には最初から道は決まっているようなものです。
私はしかし、これを特に真我実現のための方法論とは捉えては居ません。
私はこの道を捉えようと…する先に捉えられてしまいますし…
雑念が先か、あのシェキナー(モヤモヤと雲のように現臨が立ち込めてくるサマ)が先か…
この思われたままの私からは、本当の私を見出すことが出来ません。
いや、本当の私を探そうという意志もどっかへ行ってしまいます。
私の中も外も現臨の中に在る…私はそこに現存している…
思われたままの私はそこから離れて常に何かを目指し、何かを信じ、考え、何ものかになろうと忙しがありません。
何が本当の私で、何が本当の真理で、正しい宗教、思想…一歩一歩悟り、神に至る道に取りすがろうと余念が無いようです。
この有り様こそが”私への捉われ”でなくて何でしょうか!
私には絶えてなかったことですが、私の信仰、私の思想、私の修行等によって、私を見出すことなど出来ないのです。
思われたままの私を起点にしている限り、その思いを超えることが出来ません。
ここに私の外に、絶対他者として現存するものが臨在してくることにより、私はこの思いから離れる事が出来るのです。
(”思われた私の外に…”という事がとても重要なことで、神といい、真我といい、それはチッポケな自分から観れば超えたもの、他者としてあるものであるはずです。ここから明け渡しに導かれるのです)
これこそが私からの解放でなくて何でしょう! あらゆる”私の…”から離れる事が出来るのです。
捉われというものの悉くが”私への捉われ”と言ってもいいでしょう。私が捉われているんだから当たり前のことですね。
なまじっか宗教やスピに関わると、この忌まわしきエゴ、我執から離れようとして、かえって”あれはエゴ、これは真我を装った自我”と、自我との終わりなき戦いに明け暮れるハメに陥ってしまいます。
(そういうことに関心の無い普通の人というのは実にフツーな自然人に思える…”救われたがる人”に比べどっちが救いを要する人だかわかりゃしません!)
そしてその思いがいよいよ増幅し、出口のない袋小路に入ったようになり鬱病のようになったりするようです。
こうしたことは思われた自己のままが、それだけで生きているという錯覚からくるのです。
事実は生かされている、自己を生かしてくれるものが有る、という事に突き当たらざるを得ないのです。
この事は雁字搦めの私から離れてみれば如実に分からされることです。否、現臨を目の当たりにしたら離れざるを得ません。
”私は誰か?”と自分で問いかけるよりも先に、”お前は誰か”とシェキナーの雲からの声なき声で問われているようです。
”私はありてあるもの、お前はあらしめられるもの…” 私をもたらしているものなしでは私はここに居ないのです。
そして”私はここにある”のヒビキと共に私自身で居られることが出来るのです。
しかし、私はほとんどこの道を試みたことがありません。
試みようとすると、すぐ雑念が浮かび初め、何度もその問いかけからそれてしまうのです。
”私は、私は…晩飯は…私は焼肉…”…こんな訳で私は”私はマインド”からちっとも進みそうにないのです(笑)
この道には強い意志力が必要なのではないですか? そう考えるのは私の表層的理解なんでしょうか?…私にはラマナが単なる意志力を用いた修行を教えたとは思えないのですが…
それと、こんな塩梅なので深い境地になったことが無いのですが、”私は…”と問うている”私”がずっと残り続けるような気がします。
それとも、どっかでその私は消えるんですか? 多分そうでしょう。
どっかで”明け渡し”というものが有るに違いない…ラマナはもう一つ、それに導く帰依の道をも推奨していました。
どっちみち明け渡さなければならないのでしょう。根気、機根の無いダメな私には最初から道は決まっているようなものです。
私はしかし、これを特に真我実現のための方法論とは捉えては居ません。
私はこの道を捉えようと…する先に捉えられてしまいますし…
雑念が先か、あのシェキナー(モヤモヤと雲のように現臨が立ち込めてくるサマ)が先か…
この思われたままの私からは、本当の私を見出すことが出来ません。
いや、本当の私を探そうという意志もどっかへ行ってしまいます。
私の中も外も現臨の中に在る…私はそこに現存している…
思われたままの私はそこから離れて常に何かを目指し、何かを信じ、考え、何ものかになろうと忙しがありません。
何が本当の私で、何が本当の真理で、正しい宗教、思想…一歩一歩悟り、神に至る道に取りすがろうと余念が無いようです。
この有り様こそが”私への捉われ”でなくて何でしょうか!
私には絶えてなかったことですが、私の信仰、私の思想、私の修行等によって、私を見出すことなど出来ないのです。
思われたままの私を起点にしている限り、その思いを超えることが出来ません。
ここに私の外に、絶対他者として現存するものが臨在してくることにより、私はこの思いから離れる事が出来るのです。
(”思われた私の外に…”という事がとても重要なことで、神といい、真我といい、それはチッポケな自分から観れば超えたもの、他者としてあるものであるはずです。ここから明け渡しに導かれるのです)
これこそが私からの解放でなくて何でしょう! あらゆる”私の…”から離れる事が出来るのです。
捉われというものの悉くが”私への捉われ”と言ってもいいでしょう。私が捉われているんだから当たり前のことですね。
なまじっか宗教やスピに関わると、この忌まわしきエゴ、我執から離れようとして、かえって”あれはエゴ、これは真我を装った自我”と、自我との終わりなき戦いに明け暮れるハメに陥ってしまいます。
(そういうことに関心の無い普通の人というのは実にフツーな自然人に思える…”救われたがる人”に比べどっちが救いを要する人だかわかりゃしません!)
そしてその思いがいよいよ増幅し、出口のない袋小路に入ったようになり鬱病のようになったりするようです。
こうしたことは思われた自己のままが、それだけで生きているという錯覚からくるのです。
事実は生かされている、自己を生かしてくれるものが有る、という事に突き当たらざるを得ないのです。
この事は雁字搦めの私から離れてみれば如実に分からされることです。否、現臨を目の当たりにしたら離れざるを得ません。
”私は誰か?”と自分で問いかけるよりも先に、”お前は誰か”とシェキナーの雲からの声なき声で問われているようです。
”私はありてあるもの、お前はあらしめられるもの…” 私をもたらしているものなしでは私はここに居ないのです。
そして”私はここにある”のヒビキと共に私自身で居られることが出来るのです。