恩寵、上よりの力…名称はどうあれ、神的なものというものは、思われた自己、思考を超えている、という事は何回でも強調したいと思います。
チッポケな私からすれば、超越的なものということです。
他者性というものは、この超越性と観ることも出来るでしょう。
他者性というものが無ければ、明け渡しというものは出てこないのです。
このことを曖昧なままにしていると、思われたままの私が悟るとか、神になるとか、錯覚に陥ってしまうのです。又、観念で分かったつもりになったりとか…もし、エンライト、光に預かりたいのであれば、有り様は人それぞれですが、明け渡し、回心という関門は誰もが通らなければならないでしょう。
そこで、思われたままの自己という基盤は崩され、自己意志というものの限界性が示されるなど、それまでの思われたままの人生に一つのピリオドがもたらされるでしょう。
そこで精神的探究は終わるかも知れないし、終らないかも知れません。
人それぞれの魂の、あるいはガイダンスの意向次第でしょう(どっちにしろ自己意志、思念を超えた領域の話であるのは言うまでもありません)。ただ、これだけは言えます!
”創造、生成は留まることなく無限に続く…”
ところで、明け渡したらどうなるのか?…それはまさにその意識の変容の渦中にある場合のことですが、それも感じ方、観方は人それぞれでしょうけど、”ワンネスとか普遍的なものと一つになる…”という感想は、多くの人が報告していますね。
これを非二元な目覚めと観るか、どうかということも分かれるところですが、個我性というものが無くなったようになる、という事は共通していることかと思われます。
これをある人は、”観照する自己”だけになるとか言っているのですが…”エッ…観照する自己が居るの?”
こういう描写というのは、言うまでも無く言葉を超えているものなので、微妙な言い回しとならざるを得ないので、私は別にツッコミを入れるつもりも無いのですが、私が感じたのは、この言葉から来るニュアンスとは少しく違うものが有ります。
この自己というのは自意識を持った自己なのか? うっすらと事態に気付いている、そういう自意識というものは有ります。
でも、それはその事態に対しては全くの無力であり、どうしようも出来得ません。自意識で観照することも出来ないのです。
ただもう”アハ”とその事態を傍観しているしかないのです。この自己はこの変容にはなんらの働きかけが出来ないのです。ま、観てるだけには違いないのですが、これを観照と言っていいものだろうか?
だが…このあたかも観客席で傍観者となって、”アフン”としているだけのチッポケな自己を含め、全ては観られていたのです。
つまり全てを見通す観照というものは有った…というよりこの事態の全てはこの超自然的光によっていたのです。
それは自意識というものとは全く違います。言うなれば超越意識か…
私はこれを”自分を見つめる”などの自己観照と結び付けられるものと区別して”照明”と呼んでいます。
(あるいは、先の”観照する自己”というのはこのことなのでしょうか?)
そしてこれは実に語るだに微妙な事なのですが、辛うじて保たれているこの自意識を持った自己は、あたかも他者として観られている感じになってしまったのです。こっちで向こうにあると思っていたものが真の主体になった…”あっちがこっちに、こっちがあっちに”という具合です。
これを日常に戻った自己から観たら、この有り様を”一つになっている”と感じられるものであれ、私にはやはりどこまでもその主体は他者なのです。
というのも、何故そうなるか分からないのですが、この私が”一者と一つ”と感じているよりも、”他者なる御方と共にある、その中にある”と感じていることで一層自分自身で居られるからです。おそらく照らされ、浸透してくる感じでそうなるのでしょう。
何よりもそのことで自意識に捉われなくなります。
私が何ものかになろうとすることから離れられるのです。
今日も日の照らしはいよいよ強く…
チッポケな私からすれば、超越的なものということです。
他者性というものは、この超越性と観ることも出来るでしょう。
他者性というものが無ければ、明け渡しというものは出てこないのです。
このことを曖昧なままにしていると、思われたままの私が悟るとか、神になるとか、錯覚に陥ってしまうのです。又、観念で分かったつもりになったりとか…もし、エンライト、光に預かりたいのであれば、有り様は人それぞれですが、明け渡し、回心という関門は誰もが通らなければならないでしょう。
そこで、思われたままの自己という基盤は崩され、自己意志というものの限界性が示されるなど、それまでの思われたままの人生に一つのピリオドがもたらされるでしょう。
そこで精神的探究は終わるかも知れないし、終らないかも知れません。
人それぞれの魂の、あるいはガイダンスの意向次第でしょう(どっちにしろ自己意志、思念を超えた領域の話であるのは言うまでもありません)。ただ、これだけは言えます!
”創造、生成は留まることなく無限に続く…”
ところで、明け渡したらどうなるのか?…それはまさにその意識の変容の渦中にある場合のことですが、それも感じ方、観方は人それぞれでしょうけど、”ワンネスとか普遍的なものと一つになる…”という感想は、多くの人が報告していますね。
これを非二元な目覚めと観るか、どうかということも分かれるところですが、個我性というものが無くなったようになる、という事は共通していることかと思われます。
これをある人は、”観照する自己”だけになるとか言っているのですが…”エッ…観照する自己が居るの?”
こういう描写というのは、言うまでも無く言葉を超えているものなので、微妙な言い回しとならざるを得ないので、私は別にツッコミを入れるつもりも無いのですが、私が感じたのは、この言葉から来るニュアンスとは少しく違うものが有ります。
この自己というのは自意識を持った自己なのか? うっすらと事態に気付いている、そういう自意識というものは有ります。
でも、それはその事態に対しては全くの無力であり、どうしようも出来得ません。自意識で観照することも出来ないのです。
ただもう”アハ”とその事態を傍観しているしかないのです。この自己はこの変容にはなんらの働きかけが出来ないのです。ま、観てるだけには違いないのですが、これを観照と言っていいものだろうか?
だが…このあたかも観客席で傍観者となって、”アフン”としているだけのチッポケな自己を含め、全ては観られていたのです。
つまり全てを見通す観照というものは有った…というよりこの事態の全てはこの超自然的光によっていたのです。
それは自意識というものとは全く違います。言うなれば超越意識か…
私はこれを”自分を見つめる”などの自己観照と結び付けられるものと区別して”照明”と呼んでいます。
(あるいは、先の”観照する自己”というのはこのことなのでしょうか?)
そしてこれは実に語るだに微妙な事なのですが、辛うじて保たれているこの自意識を持った自己は、あたかも他者として観られている感じになってしまったのです。こっちで向こうにあると思っていたものが真の主体になった…”あっちがこっちに、こっちがあっちに”という具合です。
これを日常に戻った自己から観たら、この有り様を”一つになっている”と感じられるものであれ、私にはやはりどこまでもその主体は他者なのです。
というのも、何故そうなるか分からないのですが、この私が”一者と一つ”と感じているよりも、”他者なる御方と共にある、その中にある”と感じていることで一層自分自身で居られるからです。おそらく照らされ、浸透してくる感じでそうなるのでしょう。
何よりもそのことで自意識に捉われなくなります。
私が何ものかになろうとすることから離れられるのです。
今日も日の照らしはいよいよ強く…