私はいつも、”現臨に捉えられる”とか”それを身に覚える”とか言っていますが、読む方は、何とも空々漠々とした、捉えどころのない感じを受ける向きも多いことと思われます。
いつも言葉の限界というのを感じてしまうのですが、私はそんな抽象的な事を言っているつもりなど全くなく、じっつに具体的、リアルに実感していることを書いているのです。
スピ界では、ある気付きを得たとか、エンライト、目覚めに預かった、とか報告されていますが、我々は何の取っ掛かりも、媒介となるべきものも無しに、そういう事になることはまずないでしょう。
確かに何の前触れも無しに突如、そういうものが訪れる、と感じる事も有りますが、それ自体意識する、しないに関わらず、それをもたらす何らかのハタラキが関与していることを物語っているハズなのです。
この界隈でしばしば目に付く言葉…”苦しみから解放されるためには、私という思いを無くせばよい、宇宙に全てをおまかせすればよい…”こういうのは全く空を掴もうという試みに等しいものです。
我々には取っ掛かり、具体的に、直に自己に接続されるものが必要なのです。
道なき道ーこれは私が好んで使う言葉ですがーとはいえ、現実にこの身が預けられ、この足で立ち、歩むことのできる道というのは必要なのです。
私がいつも言っていることというのは、通常言われているものとは、いささかズレているかも知れませんが、この事と離れた事ではないのです。
しっかし…この界隈には、”これが究極のメソッド、教えと…”何とまあ、”捉えられる”で無しに、”トラワレ”そのものといっていいもので溢れかえっていることか!
そういうトラワレに関わったら、願っていた通りのことになるでしょうか?
気付き、自由、目覚め…それはまさにそういう諸々のトラワレから解放されるってことじゃないですか?
前述のように、人は何らかの依拠するものを求めて、そうした特定のメソッド、教えに”捉われる”のでしょう。
例えば、”こうすれば真我に目覚められる”という思惑をもって…
しかしそれは、思われたままの自己が、思われた真我を見つけようとするものじゃないでしょうか?
そして、そのメソッド、教えというのは、この自己が携わり、信奉していくものです。
自己が有って、教えなりメソッドが有る…それが如何に非二元を謳った教えであろうと、この”二元性”はずっとあるのです。二元性自体はあってもいいのですが、イロイロと捉われていたら、中々真我には目覚める事が無いでしょう。
本当の自己というのは、自己の限界内からで無しに、自己を超えたものに出くわさなければ…そこから示されなければ分からないでしょう。
”そんな事言ったって、どこにもそんなものは無い”という人には、思われた自己、人生しかないでしょう。
いくら信仰し、修行したって、あるいは何もしないで空論に興じていても無駄なのです!
自己の限界というのは、自分が生きているという先に、生かされているという事実に気付けば、分からされることです。
ここに祈りというものが生まれてくるのです。私自身は、祈りというもの、祈り心を持たされていたことで、徐々に思いを超えたものに意識が向かわされていったのです。
又、本当に自己の限界に突き当たった人というのは…実は”自己を超えたものが有る”、という事が知らされているハズなのです。
何故、その限界が分かるのか?…そして私が現臨と呼んでいるものの訪れも…ヒタヒタと喜ばしきものと共に自己に迫って来るものが…
この得も言われぬ感じ―これは抽象的な教えなどには置き換えることが出来ません―こそが、具体的な取っ掛かりとなるものです。
ある電撃的な閃光を受けるような体験を通してにせよ、いつの間にかにせよ、自己とこの自己を超えたハタラキとの間に回路のようなもの(これが表と裏の接点)が開かれると、いつも言うように”パッ”と意識が向いて”パッ”と…というようになります。
注意しなければならないことは、それを意念で固めないようとしないことです。そのハタラキは、トラワレから解き放つものなのに、新たに捉われるのは愚かな事です。
そして、その超越的光は自分では分からない、この私たらしめているもの、私の本源というものを指し示すのです。
幾多の教えやメソッドというのは、この”私について、私になるための”の道を示そうとしたのでしょう。
だが、この直接的告示は端的に告げます…”私こそが道である”と…
しかし、この私は何処までも、”真我、私の本源に達した!”とは言えません。
そのものにあってこそ、言えることなのです。
”私という道”を見失わないために…。
いつも言葉の限界というのを感じてしまうのですが、私はそんな抽象的な事を言っているつもりなど全くなく、じっつに具体的、リアルに実感していることを書いているのです。
スピ界では、ある気付きを得たとか、エンライト、目覚めに預かった、とか報告されていますが、我々は何の取っ掛かりも、媒介となるべきものも無しに、そういう事になることはまずないでしょう。
確かに何の前触れも無しに突如、そういうものが訪れる、と感じる事も有りますが、それ自体意識する、しないに関わらず、それをもたらす何らかのハタラキが関与していることを物語っているハズなのです。
この界隈でしばしば目に付く言葉…”苦しみから解放されるためには、私という思いを無くせばよい、宇宙に全てをおまかせすればよい…”こういうのは全く空を掴もうという試みに等しいものです。
我々には取っ掛かり、具体的に、直に自己に接続されるものが必要なのです。
道なき道ーこれは私が好んで使う言葉ですがーとはいえ、現実にこの身が預けられ、この足で立ち、歩むことのできる道というのは必要なのです。
私がいつも言っていることというのは、通常言われているものとは、いささかズレているかも知れませんが、この事と離れた事ではないのです。
しっかし…この界隈には、”これが究極のメソッド、教えと…”何とまあ、”捉えられる”で無しに、”トラワレ”そのものといっていいもので溢れかえっていることか!
そういうトラワレに関わったら、願っていた通りのことになるでしょうか?
気付き、自由、目覚め…それはまさにそういう諸々のトラワレから解放されるってことじゃないですか?
前述のように、人は何らかの依拠するものを求めて、そうした特定のメソッド、教えに”捉われる”のでしょう。
例えば、”こうすれば真我に目覚められる”という思惑をもって…
しかしそれは、思われたままの自己が、思われた真我を見つけようとするものじゃないでしょうか?
そして、そのメソッド、教えというのは、この自己が携わり、信奉していくものです。
自己が有って、教えなりメソッドが有る…それが如何に非二元を謳った教えであろうと、この”二元性”はずっとあるのです。二元性自体はあってもいいのですが、イロイロと捉われていたら、中々真我には目覚める事が無いでしょう。
本当の自己というのは、自己の限界内からで無しに、自己を超えたものに出くわさなければ…そこから示されなければ分からないでしょう。
”そんな事言ったって、どこにもそんなものは無い”という人には、思われた自己、人生しかないでしょう。
いくら信仰し、修行したって、あるいは何もしないで空論に興じていても無駄なのです!
自己の限界というのは、自分が生きているという先に、生かされているという事実に気付けば、分からされることです。
ここに祈りというものが生まれてくるのです。私自身は、祈りというもの、祈り心を持たされていたことで、徐々に思いを超えたものに意識が向かわされていったのです。
又、本当に自己の限界に突き当たった人というのは…実は”自己を超えたものが有る”、という事が知らされているハズなのです。
何故、その限界が分かるのか?…そして私が現臨と呼んでいるものの訪れも…ヒタヒタと喜ばしきものと共に自己に迫って来るものが…
この得も言われぬ感じ―これは抽象的な教えなどには置き換えることが出来ません―こそが、具体的な取っ掛かりとなるものです。
ある電撃的な閃光を受けるような体験を通してにせよ、いつの間にかにせよ、自己とこの自己を超えたハタラキとの間に回路のようなもの(これが表と裏の接点)が開かれると、いつも言うように”パッ”と意識が向いて”パッ”と…というようになります。
注意しなければならないことは、それを意念で固めないようとしないことです。そのハタラキは、トラワレから解き放つものなのに、新たに捉われるのは愚かな事です。
そして、その超越的光は自分では分からない、この私たらしめているもの、私の本源というものを指し示すのです。
幾多の教えやメソッドというのは、この”私について、私になるための”の道を示そうとしたのでしょう。
だが、この直接的告示は端的に告げます…”私こそが道である”と…
しかし、この私は何処までも、”真我、私の本源に達した!”とは言えません。
そのものにあってこそ、言えることなのです。
”私という道”を見失わないために…。