小池辰雄先生は、ユダヤ教の主神ヤハウエに実存主という訳語を充てておりました。
実存…今や死語になった感がありますが、哲学の世界では、一頃サルトルなどの実存主義がもてはやされていました。
私が初めて哲学に開眼する縁となった、ベルジャーエフなどもその系譜で語られていたものです。
私は”そういうものなのか…”と思って読んでいたものでしたが、そのうち心身がガタガタ震えて来て、”よく分からんが、これが実存に触れるって事なのか!”と自己満足ながら感じたものでした。
所謂哲学では”実存とは何ぞや?”と、意味を追求して行き、かえって分かったつもりでそうならない、不毛な理解に陥るのが通弊のようです。
大体、この言葉など多くの哲学用語がそうであるように、曰く言い難いことを表現しているものと思われるのですが、概念的に意味をいくら捉えても、実存に預かることはないでしょう。
そもそも、実存は主義とはなり得ないもの…主義となった途端実存しなくなるものでしょう。
近代哲学は対象的認識にとどまっていて、その明らかにしようとしている”自体なるもの”とは平行線をたどっているばかりのようです。
実存するものは、意味付けが出来ない…それでもなお言及が許されれば、実在ということと意味合いは似ていますが、私的にはニュアンスはかなり違うのです。
実存するものは、外在的に実体あるものとしては認識出来ないものと感ずるからです。
神をこのように客観的な実在として捉えたとしても、我々はリアルに実存的に神にまみえることは不可能なのです。
実在信仰というか素朴実在論で語られる如何なる宇宙最高神、究極の実在だろうと、現実に我々に生きて臨んでこない神が一体何になるでしょうか?
私は神という言葉を、この実在論の陥穽に流れがちに使いすぎているのかもしれません。
神とは如何なるものか…実在論的に語られているものは、いずれも我々の思弁の限界内で決めつけているに過ぎません。
そして観念の世界でそのように信じられているだけです。
この”実存するもの、実存してくるもの”として端的に言い表しているものは、”我は在りて在るもの”という言葉でしょう。
こちらの限られた思弁では捉える事の出来ないものは、我々の現前にアリアリと切り込んで来てこそ、直に関わることが出来るのです。これが臨在というものです!
そしてこの実存主のうちに在る我々は、”在りて在らしめられる”ものとなるのです!
このもの在って我々が在る…神的なものが実存的に開示されることは、我々自身も明らかにさせられることともなるのです。
この実存主は正しく我々一人一人にとって、唯一絶対の神でありましょう。
抽象的に思い描かれた神など、ことごとく偶像の神、他(アダシ)神でしかありません。
これに反して、実存主との出会いは極めて具体的なものです。
M・ブーバー的な”我と汝”の人格的出会いと言ってもいいでしょう
これは、神は人格を有しているかどうかとは、別の意味で独一無二の具体的な一なる関係について述べているのです。この意味で実存主は人格神です。
しかしながら、この実存的神は何とこれまで、我々の”実存”から離れて民族、国家、宗教など”実在”するかの如きものに結び付けられてきたことでしょうか! この実存の外のどこかに普遍的なもの=神的なものが実在しており、その世界=神の国を樹立しなければならないものと眩惑されてしまったのです。それは核分裂にも似た、終わることの無い相対的対立を生み出すばかりです。
これ実にアダシ神の誘惑への屈服でなくて何でしょう。
真の普遍性は具体的一者と離れては無い…神の国は、一人一人の実存的出会い、それを通しての実存主の顕現によってこそ開かれるのでしょう…。
実存…今や死語になった感がありますが、哲学の世界では、一頃サルトルなどの実存主義がもてはやされていました。
私が初めて哲学に開眼する縁となった、ベルジャーエフなどもその系譜で語られていたものです。
私は”そういうものなのか…”と思って読んでいたものでしたが、そのうち心身がガタガタ震えて来て、”よく分からんが、これが実存に触れるって事なのか!”と自己満足ながら感じたものでした。
所謂哲学では”実存とは何ぞや?”と、意味を追求して行き、かえって分かったつもりでそうならない、不毛な理解に陥るのが通弊のようです。
大体、この言葉など多くの哲学用語がそうであるように、曰く言い難いことを表現しているものと思われるのですが、概念的に意味をいくら捉えても、実存に預かることはないでしょう。
そもそも、実存は主義とはなり得ないもの…主義となった途端実存しなくなるものでしょう。
近代哲学は対象的認識にとどまっていて、その明らかにしようとしている”自体なるもの”とは平行線をたどっているばかりのようです。
実存するものは、意味付けが出来ない…それでもなお言及が許されれば、実在ということと意味合いは似ていますが、私的にはニュアンスはかなり違うのです。
実存するものは、外在的に実体あるものとしては認識出来ないものと感ずるからです。
神をこのように客観的な実在として捉えたとしても、我々はリアルに実存的に神にまみえることは不可能なのです。
実在信仰というか素朴実在論で語られる如何なる宇宙最高神、究極の実在だろうと、現実に我々に生きて臨んでこない神が一体何になるでしょうか?
私は神という言葉を、この実在論の陥穽に流れがちに使いすぎているのかもしれません。
神とは如何なるものか…実在論的に語られているものは、いずれも我々の思弁の限界内で決めつけているに過ぎません。
そして観念の世界でそのように信じられているだけです。
この”実存するもの、実存してくるもの”として端的に言い表しているものは、”我は在りて在るもの”という言葉でしょう。
こちらの限られた思弁では捉える事の出来ないものは、我々の現前にアリアリと切り込んで来てこそ、直に関わることが出来るのです。これが臨在というものです!
そしてこの実存主のうちに在る我々は、”在りて在らしめられる”ものとなるのです!
このもの在って我々が在る…神的なものが実存的に開示されることは、我々自身も明らかにさせられることともなるのです。
この実存主は正しく我々一人一人にとって、唯一絶対の神でありましょう。
抽象的に思い描かれた神など、ことごとく偶像の神、他(アダシ)神でしかありません。
これに反して、実存主との出会いは極めて具体的なものです。
M・ブーバー的な”我と汝”の人格的出会いと言ってもいいでしょう
これは、神は人格を有しているかどうかとは、別の意味で独一無二の具体的な一なる関係について述べているのです。この意味で実存主は人格神です。
しかしながら、この実存的神は何とこれまで、我々の”実存”から離れて民族、国家、宗教など”実在”するかの如きものに結び付けられてきたことでしょうか! この実存の外のどこかに普遍的なもの=神的なものが実在しており、その世界=神の国を樹立しなければならないものと眩惑されてしまったのです。それは核分裂にも似た、終わることの無い相対的対立を生み出すばかりです。
これ実にアダシ神の誘惑への屈服でなくて何でしょう。
真の普遍性は具体的一者と離れては無い…神の国は、一人一人の実存的出会い、それを通しての実存主の顕現によってこそ開かれるのでしょう…。