精神的道では、何十年も信仰、修行、探究をし続けているにも関わらず、一向に”これだ!”と、確信出来るものに突き当たらない…という人も多いことと思われます。
いつも書いていることですが、私は、いつも”信仰のための信仰”や”修行のための…”、探究のための…”に明け暮れている人というのを沢山見てきましたし、自分自身も知らず知らず、そうなってしまう事も有るのです。
そして、感ずることは、一体何のための信仰、修行、探究なのか、ということです。
悟りたいため?…苦境から脱したいため?、幸福になりたいため?、本当の自分を見つけるため?
”これだ!”という確信とは、これらのことを満たすことなんでしょうか?
で、望んだとおりにならなければ、それらをやめてしまう人も多いようです。
やめられるという事は、何も始まってなかったということでしょう。
あなたの中で何かが始まったら、何かに捉えられてしまったら、やめられなくなるはずです。
捨てようとしても、捨てられなくなる…
中には、やめると”よからぬことが起きる”、という恐れからやめられない人もいるでしょうけど…信じている神があなたに何かをしてくるんでしょうか?…それは良いことなのか、悪いことなのか?
もし、本当にそういうことがあるなら…
絶対にあなたはそれまでのあなたではいられなくなるはずです!
同じことを飽きもせず、繰り返してなど居られなくなるはずです!
”人生とは、世界とはこういうもんだ!”という信念が根底から覆ります。
そもそも望んでいることがこういう事と結びついていないのなら、信仰も、修行も、探究も全て無意味でしょう。
ホントにホントに人生の大いなる無駄というべきです!
”分かっているよ、神を見出す、つながるために信仰とか修行とかがあるんでしょ!”って、言われるかもしれません。
でも、それはどの宗教の神か、何の神か…考えあぐね、あるいは”神とは何ぞや…”って、考え巡らしてやしませんか?
誰が神を見出し、つながろうとしているんですか?
自分自身のことなら、唯一神だろうと、宇宙の最高神、ハイアーセルフ、守護霊守護神だろうと、人がそう言っている抽象的な神など何になるでしょう。
神を求める事ということは、全くもって他人ごとではありません。
自分自身であることと一つのことです。切り離されたものではないのです。
信仰、修行、探究、悟り、幸福、真我実現…自分がこちらに有り、向こうにそれらを見て、対象化して、手に持つことの出来るモノとして捉えていたら、いつまでも一つになることが出来なくなります。
そして…私は多くの人がこの無駄になりかねない道の途上で、肝心なことを見逃しているのを見てきました。
その多くはそもそものその道を歩まされることになる契機にあるようです。
何が、その道に携わろうとさせたのでしょうか?…少なくともその時は、心が動いている筈なのです。一つになるべきものに捉えられているのです。
仮に特定の教師、教えというものが契機、媒介となるものであれ、そこには何らかの自己と神的なものとの共感というものが有るはずです。
共感においてこそ、自己はそのものと一つになるでしょう。自分の中にそのものの火種が無ければ、燃えるような共感は生まれないのです。
人は言うかも知れません。”倦まずたゆまず信仰、修行を続けなければなりません!”と…
だが、他ならぬあなた自身、あなたの神はどうなのか…一つになっているところから離れた、いかなる道も方法も何になるでしょうか…人や世の中におもねって火種を消してはなりません。
いつも書いていることですが、私は、いつも”信仰のための信仰”や”修行のための…”、探究のための…”に明け暮れている人というのを沢山見てきましたし、自分自身も知らず知らず、そうなってしまう事も有るのです。
そして、感ずることは、一体何のための信仰、修行、探究なのか、ということです。
悟りたいため?…苦境から脱したいため?、幸福になりたいため?、本当の自分を見つけるため?
”これだ!”という確信とは、これらのことを満たすことなんでしょうか?
で、望んだとおりにならなければ、それらをやめてしまう人も多いようです。
やめられるという事は、何も始まってなかったということでしょう。
あなたの中で何かが始まったら、何かに捉えられてしまったら、やめられなくなるはずです。
捨てようとしても、捨てられなくなる…
中には、やめると”よからぬことが起きる”、という恐れからやめられない人もいるでしょうけど…信じている神があなたに何かをしてくるんでしょうか?…それは良いことなのか、悪いことなのか?
もし、本当にそういうことがあるなら…
絶対にあなたはそれまでのあなたではいられなくなるはずです!
同じことを飽きもせず、繰り返してなど居られなくなるはずです!
”人生とは、世界とはこういうもんだ!”という信念が根底から覆ります。
そもそも望んでいることがこういう事と結びついていないのなら、信仰も、修行も、探究も全て無意味でしょう。
ホントにホントに人生の大いなる無駄というべきです!
”分かっているよ、神を見出す、つながるために信仰とか修行とかがあるんでしょ!”って、言われるかもしれません。
でも、それはどの宗教の神か、何の神か…考えあぐね、あるいは”神とは何ぞや…”って、考え巡らしてやしませんか?
誰が神を見出し、つながろうとしているんですか?
自分自身のことなら、唯一神だろうと、宇宙の最高神、ハイアーセルフ、守護霊守護神だろうと、人がそう言っている抽象的な神など何になるでしょう。
神を求める事ということは、全くもって他人ごとではありません。
自分自身であることと一つのことです。切り離されたものではないのです。
信仰、修行、探究、悟り、幸福、真我実現…自分がこちらに有り、向こうにそれらを見て、対象化して、手に持つことの出来るモノとして捉えていたら、いつまでも一つになることが出来なくなります。
そして…私は多くの人がこの無駄になりかねない道の途上で、肝心なことを見逃しているのを見てきました。
その多くはそもそものその道を歩まされることになる契機にあるようです。
何が、その道に携わろうとさせたのでしょうか?…少なくともその時は、心が動いている筈なのです。一つになるべきものに捉えられているのです。
仮に特定の教師、教えというものが契機、媒介となるものであれ、そこには何らかの自己と神的なものとの共感というものが有るはずです。
共感においてこそ、自己はそのものと一つになるでしょう。自分の中にそのものの火種が無ければ、燃えるような共感は生まれないのです。
人は言うかも知れません。”倦まずたゆまず信仰、修行を続けなければなりません!”と…
だが、他ならぬあなた自身、あなたの神はどうなのか…一つになっているところから離れた、いかなる道も方法も何になるでしょうか…人や世の中におもねって火種を消してはなりません。