人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

アジス・クリストフー覚醒の道標ー

2017-05-28 18:24:01 | 人生の裏側の図書室
「明け渡しは人が”居なくなる”ことではない。プレゼンスは、明け渡すプロセスに内在する一部なのだ。プレゼンスがなければ、明け渡しは、ただあなたを”スペース・アウト”させてしまう」
「マインドからあなたを解放する唯一の力は、あなた自身のプレゼンスだ」
「見ている者を見るためには、後ろを見なければならない…」
(アジス・クリストフ「ヒューマン・ブッダⅡ・魂の覚醒とは何か」アルテ刊)

私は上記の本を5年くらい前に読んでいます。
アジス・クリストフはそれ以前から知っていましたが、私は特別、瞑想実修者である訳でも無く、ただでさえ”ステート・オブ・プレゼンス”とか”Me”とか”Iam”とか特殊用語が頻発するなど、頭で理解しようとしてもしょうがない、と思っていたのか、スルーしてしまっていたようです。
今、読み返してみると…思わず身震いしそうになります!…一体私は何を読んでいたのか…
前にも書いた事ですが,このころはあまり熱心に本を読んでなかったし、自分の気付きなどにも、あまり意識を向けられていなかったのです。
この私の意識の変化は、一重にこのブログを書くことの賜物でしょう(笑)
アジスはその朋友である故フーマンと共に、瞑想という事に留まらず、宗教、哲学などあらゆる精神世界に新機軸をもたらしました。
アジスを知る前は、私自身”真我に目覚める”とか、”エンライトメント”と言われるものは、思考を超えた純粋意識に目覚める事としか捉えていなかったのですが、彼がそのアウェアネスの領域の他に、ハートの領域、ビーイング(在ること〉の領域というものを示したことで、我々はそのことをより広く、深く理解出来るようになったと言えるでしょう。
この三つの領域というのは、厳密に分けられるようなものでなくて、重合したものであるのは言うまでもないでしょう。
あの限りない愛に包まれる感じ、安息感といったものは、確かに純粋意識という味気ない?言葉だけでは伝わりそうにありません。
もっと日常的な事でも、例えば知的理解を受ける事には、その奥で実はある感性が伴っている、ということは誰もが経験していることではないでしょうか? 
ついでに言うと、過去記事
http://blog.goo.ne.jp/sitateru/e/413d7b069d2a7ffcd4a854b5ee6586d5
に書いた事の関連で、スピ界隈では忌み嫌われている?思考、マインドというものには、その奥に根源的な”知性”というものが有る、ということを明言したものに接したのは、私はアジス以前にはほとんど知りません。(ベルジャーエフ、ブーバーなどの宗教哲学では、この事を表現する試みは成されていました)
一面的に”思考を落とせ!”などと言われたりしますが、表の思考を通して内奥の知性につながり、あるいはその知性の方が表に顕れている、という場合もあるのです。この事を蔑ろにすることで明晰性を欠いてしまう事にもなりかねないでしょう。
これは彼が言うプレゼンスというものと関係が有るようです。あまり語意に拘る必要も無いと思われますが、”現前しているもの”ということを言い表しているのでしょう。
それは又、私ーMeというものを強く感じさせるものです。”自己を超えたものでありつつ、自己そのものでもあるもの”というべきか…私は主としてキリスト教で述べられているのを借りて、”現臨”などと言っておりますが…
これが無いと、スペース・アウトに陥ってしまうと言いますが、私がかつて意識が飛びそうになった状態というのが、どうも単なるこの状態だったようです。それが、明晰さ、愛の臨在、私への回帰といった感覚と共に安心を得たこと、そしてなにより明け渡しの場に臨んでいたことなど、アリアリと身に覚えています。こうしたことはこのアジスの言葉に触れていないと気付かなかったでしょう。(これはつい最近のことです)
しかし、私は前述したように瞑想家でも無く、彼に特に私淑していた訳ではありませんでした。ただ、モーリス・ズンデルと同じく、ずっと私の目の前には、そうと知らずに、闇を照らし、導いている灯のようなものが与えられていたように感じてなりません。
アジスの本は、数種アルテから刊行されていますが、彼自身言っているように、ごく少数の真摯な求道者に向けられているもので、大衆向きとは言い難いものですが、どれをとっても非二元でも二元でも、信仰でも修行でも無い、我々の精神の内奥を開示し、道標となるものと言えるでしょう…。








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