こうして文章を書いていて思うことは、つい色気を出して話をことさら盛ったり、飾ったり、鼻モチならないのは、実際にそういう心境になってたり、実感している訳でもないのに、高遠そうなことをつい言い表してしまいがちになることです。
プライドの虫というのは、いつ顔を出すのか分からないものですね。
つまり心に無いようなことを書いてしまう、ということです。このことは常に留意し、自戒していきたいものです。
"私が信奉する教師は、6次元いや7次元におわしまし、キリストやブッダと同等、いやそれ以上、地球の救済のために何度となく生まれ変わり、今アセンションに向けて最後に降臨したもうたのです"
6次元だろうと、7次元だろうと他人が言っていることを鵜呑みにし、無批判に迎合してしまうことは、2次元的平面思考から一歩も出ていないということでしょう。
こういう話は、どんなに言葉が高遠そうでも、観念が遠くの方へ馳せ飛んで、中有にさ迷っていくだけで、心に何も響いて来ません。
魂の平安といったこととは、何もつながらないのです。
その教師が言うには、"人は本来神と一つのもの、既に悟っている、救われているのです"と...
だから、ひたすら"自分は神と一つ、既に悟っている、救われている"と...信じるのみ。
"地球も救われる"と言っているから...信じるのみ。
そしてオウム返しに頭の中でよく内省も無しに、暗示のようにその言葉が繰り返される...
又、ご丁寧にも"こういう有難い教えは多くの人に伝えねば..."と、外に発信してしまう...
自分自身に何らかの確信、実感、腑に落ちている何かでもあるのでしょうか?
自分自身の心に何も響いてもおらず、平安を見出だしてもいないことは、自分がそうなら何を迷っていようと、その人の勝手なんでしょうけど、外には心のない、命のない言葉を投げかけているということをその人は理解しているのでしょうか?
その周囲にはどこにも導かれない思念がグルグル回り続け、真実を覆ってしまうのです。
真実というのは...(多分本人にしか分からないでしょうけど...)例えば"自分は真実のことが何も分からない"という現実だったりするのでしょう。(いや、何人にとってもこのことの他に真実、現実というのは無いのではないですか? 御同輩i)
そしてその事が本当に腑に落ちた時、蒙昧から覚めることが出来ます。
目覚めというのは、眩いような特別な体験のことでなく、けだしこういうことでしょうi
私はここで例えば、神人一体の体験のないことを、言い放つもんじゃない"と言っている訳じゃありません。
心に無いこと、現実から遊離し、真実を覆い隠す言辞のことを言っているのです。
真実は体験が有ろうと、無かろうと、誰しもの心の底に生きているものです。
それは何人をも愛と現存に導かずにおれないものです。この生まれる以前からの初めの愛あるゆえに、この矛盾、混迷の中にも人の生の花も咲くというものです。
私は、いつも妄想に走ってしまうことを飽きもぜず繰り返している人で、言葉を超えた愛に触れた体験を表明していたのを知っています(ン...体験なら誰だってしてまっしゃろi)
こういう話というのは、たとえウソっぽくっても、何か伝わるものはあるものです。初めの愛にはウソはつけないものなのでしょう。
それはどこにも消えることなく、ここに生き続けるもの...
現在は、現存と虚妄がますますくっきりとたて分けられ、写し出されてくるようです。
それは取りもなおさず現臨が示現してくる、ということを表しているのでしょう。
願わくば、この拙い試みにも、その何がしかが写り出されんことを...
プライドの虫というのは、いつ顔を出すのか分からないものですね。
つまり心に無いようなことを書いてしまう、ということです。このことは常に留意し、自戒していきたいものです。
"私が信奉する教師は、6次元いや7次元におわしまし、キリストやブッダと同等、いやそれ以上、地球の救済のために何度となく生まれ変わり、今アセンションに向けて最後に降臨したもうたのです"
6次元だろうと、7次元だろうと他人が言っていることを鵜呑みにし、無批判に迎合してしまうことは、2次元的平面思考から一歩も出ていないということでしょう。
こういう話は、どんなに言葉が高遠そうでも、観念が遠くの方へ馳せ飛んで、中有にさ迷っていくだけで、心に何も響いて来ません。
魂の平安といったこととは、何もつながらないのです。
その教師が言うには、"人は本来神と一つのもの、既に悟っている、救われているのです"と...
だから、ひたすら"自分は神と一つ、既に悟っている、救われている"と...信じるのみ。
"地球も救われる"と言っているから...信じるのみ。
そしてオウム返しに頭の中でよく内省も無しに、暗示のようにその言葉が繰り返される...
又、ご丁寧にも"こういう有難い教えは多くの人に伝えねば..."と、外に発信してしまう...
自分自身に何らかの確信、実感、腑に落ちている何かでもあるのでしょうか?
自分自身の心に何も響いてもおらず、平安を見出だしてもいないことは、自分がそうなら何を迷っていようと、その人の勝手なんでしょうけど、外には心のない、命のない言葉を投げかけているということをその人は理解しているのでしょうか?
その周囲にはどこにも導かれない思念がグルグル回り続け、真実を覆ってしまうのです。
真実というのは...(多分本人にしか分からないでしょうけど...)例えば"自分は真実のことが何も分からない"という現実だったりするのでしょう。(いや、何人にとってもこのことの他に真実、現実というのは無いのではないですか? 御同輩i)
そしてその事が本当に腑に落ちた時、蒙昧から覚めることが出来ます。
目覚めというのは、眩いような特別な体験のことでなく、けだしこういうことでしょうi
私はここで例えば、神人一体の体験のないことを、言い放つもんじゃない"と言っている訳じゃありません。
心に無いこと、現実から遊離し、真実を覆い隠す言辞のことを言っているのです。
真実は体験が有ろうと、無かろうと、誰しもの心の底に生きているものです。
それは何人をも愛と現存に導かずにおれないものです。この生まれる以前からの初めの愛あるゆえに、この矛盾、混迷の中にも人の生の花も咲くというものです。
私は、いつも妄想に走ってしまうことを飽きもぜず繰り返している人で、言葉を超えた愛に触れた体験を表明していたのを知っています(ン...体験なら誰だってしてまっしゃろi)
こういう話というのは、たとえウソっぽくっても、何か伝わるものはあるものです。初めの愛にはウソはつけないものなのでしょう。
それはどこにも消えることなく、ここに生き続けるもの...
現在は、現存と虚妄がますますくっきりとたて分けられ、写し出されてくるようです。
それは取りもなおさず現臨が示現してくる、ということを表しているのでしょう。
願わくば、この拙い試みにも、その何がしかが写り出されんことを...