人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

主は一つ、道は一つ

2017-09-21 18:11:42 | 求道、探究
「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの父なる神は一つである。神はすべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいましたもう」
(新訳聖書.エペソ書.第4章)

私はこれまで幾つもの宗教、精神的団体と関わりがあったのですが、その教えであれ、修行方法であれ、その団体、グループにしか通用しないようなものは少しも身に付いたことがありません。
これは求道のごく初期の頃入信していた教団で、その独善的有り様に閉じこもることの愚かしさを身をもって知ったから、その事が"身に付いている"ためでしょう。
多くの教団、グループでは口では、"神はあなたの内にいます"とか、その教え、修行方法にさも普遍性を持たせるような言葉を盛ったりするものですが、どっかで"この教え、方法によらなければダメです"という、その団体本位の"本音"を忍ばせているものも少なくないようなので、見極めが必要です。
あなた自身に直接つながらず、示されることなく、常にあなたの外から言葉なり、メソッドなり、形あるものによって教導しようとするものは、どこかで直接性へとシフトされない限り、あなたの内なるものを開くことなく、外なるものに依存させるのみでしょう。
そういうものは身に付くことがないのです。心身に浸透してくることがない...だから身に覚えがありません。
身に覚えているものというのは、異なった団体においても、それを越えて発現します。
考えてみれば、前述のように多くの道で説かれているように、神は内にいまして、普遍的なものなのだから当たり前なことです。
神を信じ、つながると言うのなら、この当たり前のことを観念でなしに"自内証"されなければ虚しい事だと思われませんか?
私に初めて"気"というか、"生命エネルギー"、"バイブレーション"...そう、私の公用語?では"ハタラキ"が発現したある時、すごーく求道心が旺盛になっていたのですが、そのジンジンとした感覚とともに、このような声なき声を聞いた感じがしました。
"お前はどこへ行っても私にしか会わないだろう"

最初にそのハタラキを実感したのは、自己流の祈りや、宗教結社、道院に伝わる"先天の坐法"の実修が切っ掛けでしたが、瞑想的修練を伴うものに限って言えば、スブドのラティハン、元波動瞑想、クエーカーの沈黙の礼拝、野口整体...名称も説くところも違い、その実修課程には異なった展開もある(道院の坐以外には、自動運動が発現したりします)のですが、受ける感覚に微妙な差異はあるものの、あの感じの根本にあるものは同じなのです。
これらの修練には、特別な人為的"テクニック"に重きを置かず、自然に任せるという点が共通していると言えるでしょう。
この他、小池辰雄先生の福音集会や、大調和協会などにおけるある種の霊的感応にも通底しているものです。
そして、あの時...あの声なき声の主、すべてに通じた主の臨在をまざまざと知ったのです。
私の節操の無い遍歴は、わが主のあの声なき言葉に促されているところもあり、そこにはそれを確かなものにしてみたいという思いがあったのも事実です。
世の中には数多の宗教、精神的道があり、信仰があり、修行法があります。
あたかも名称が違えば神も変わるような錯覚も起きかねません。外なる神に依存していたらそうなるでしょう。
そこから離れてしまえば、人は神から離れてしまうのでしょうか? 真理から外れてしまうのでしょうか?
外なる神は頭の中にしか存在せず、数多の異なった道によって分裂しており、観念と共に消えていってしまいます。
私はわが主から、諸々の宗教、精神的道には、移ろいゆくものと永遠なるものが存していることを示されたのです。
私は色々曲折はあったものの、一度言葉を越えた命のハタラキが意識に根付いたならば、諸々の相対的事象を越えて、ずっと息づいているのを実感しています。
内なるものは普遍に開かれているのです。





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