人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自由をめぐりて

2017-09-08 16:21:41 | 雑感
人は皆、何を思い、何を感じ、どう生きていくかは全く自由ですよね。
逆説的に言うと 何に囚われ、どう不自由な生き方をしていようと自由な訳です。
自由というものほど、有り難く、厳しいものは無いのではないでしょうか?
"何をどう書こうと自由だーっ!"をモットー?として、こうして書いていて、手前勝手なことを言うようですが、あまり書かれていることに捕らわれないで頂きたいと思っているのです。
時には、読む側にトラワレをもたせてしまうような、シンラツなことを書いたりしますが、人によっては"あれは私のことを言っているんだろうか?"と考えすぎる向きもおられるかも分かりません。そう、それは図星かも...しかし多くの人にはそうでないかも...ああいうのは、ある人のことが念頭にあって書いてたりするのですi(いつも何も確証の無いオカルト的観念にハマってしまう、その人はある時、"こういうことはもう止めなければなりませんね"、と洩らしていましたが、止められないようです)
個別のイロイロな人のことは分からないですから...同じ言葉を違う人には向けられなかったりするのです。
自由な感性で読んで頂きたいと思っているのです。
何であれ、他人が何を言おうと、あなた自身が思い、感じたものこそがもっとも尊ばれるべきものですi
例えば、私自身が感じ、経験してきたことから"ある教え、教師、メソッドなどに無批判に迎合したりすべきでない"、などと言ったりしますが、別の面で絶対的帰依というか、それらに無条件に惹き付けられてしまう運命の人もおられることでしょう。
内なる魂がそれに赴くというのは、もうどうあっても、こうあっても、そうなってしまうということなのであり、他人の出る幕などありません。
それで、ずっとその道を深めていくこともあるだろうし、自分に不都合なこと、不自由なものを感じたら新たに学ぶことも、気づくこともあるでしょう。
後者については、他人が何を言おうと、自分がマイナスなものとして、間違いと感じなければ、そう自覚しなければ意味がありません。
一般論のような抽象的なものでなく、自分自身のこととして理解されなければ、本当の学びにはならないでしょう。
何を思い、感じ、信じ、道を歩む、生きていく...それは自分がしている...当たり前の真実ですよね。
確信を得たい、目覚めに預かりたい...自分が本当にそう望まなくして開かれる道理などありません。
表向きの自分には分からなくても、何か内側にそう促しているものを感じないでしょうか?
(逆に頭の中では知識的にそう思ってはいても、内心ちっとも望んでいない場合など宗教信者には多いものです。どこか他人事になっているからでしょう)
魂が何に赴くかは人それぞれのもの..."この教えを信じましょう"、とか"このやり方でなら悟れます"、"高次元の神からの..."といった言辞が如何に大きなお世話であることでしょう。
意識の表層をくすぐり、やたらと、予見、固定観念ばかり植え付けるばかりの言葉からは、自己の内奥が開かれることがありません。
本当の自分の感性から精神の深みへと自由に赴くということがないからです。
宗教、スピにはかえってトラワレの元になってしまうものが多いですね。そうした思いに慣れてくると、そもそも自由とはどういうことかすら分からなくなってしまいかねません。
私はつくづく感じます。自由であることとは、実に幸福なものであるということを...
それは本当の自分から来るものであるとは、一応言えることではありますが、真我であろうと、エゴだろうと自分自身を受け入れなければ、自分の世界は何一つ始まってきません。自分がそう感じなければいかなる幸福もあり得ないのです。
この事を伝えたいがため、つい私も余計なお世話を呟いてしまう次第なのです。
でも、あなたの本当の真実はどこまでもあなた自身にゆだねられているのです。






コメント
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