人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思いのクセと意識付け

2017-09-06 17:34:32 | 意識、照明
人間には誰しも思いのクセ、パターンというものがあり、それに引きずられるように行動に駆り立てられていくものですね。
それがより強く即物的なものに転化されてくると、アルコール、ニコチン、過食、拒食、バカ買いなど依存症と結び付くことにもなります。
大体において身心にマイナスなものとして捉えられているものです。
それは、「分かっちゃいるけど、止められない」ものです。
"こういうことを繰り返していても良いわけはない...何だか空しい..."ということは何となく分かる。けど止めようとしてもそう出来ないのがカルマなんでしょうか...
"分かっている"というのは、自覚意識の表れな訳で、これが無いというのは、救いようがありません。
もっとも本人は、それでいいと思っているんでしょうから、端の者が何を言おうと、人生は全く人の好き好きです。
精神的な方面では、どうしても異次元とか前世、予言など何らの確証もないことにやたらとハマってしまう人がいます。長年そうなっていて思いのクセから離れられないのでしょう。(これは実際にそうした世界と交渉している所謂霊能者とは別です)
こういうことにいくら思いを巡らし、信じ込んでいても(信じなければならないような気がするのでしょうか?)魂の平安にはつながらないことは、おそらく当人には内心分かっているのでしょう。
又ある知人で、やたらといつも違う教会(キリスト教がほとんどのようでした)を渡り歩いている人が居ました。
自分の魂のピッタリ合うところを求めているのでしょう。いい加減な気持ちで納得など出来ないようです。(一体、誰のことだろう?)
この人がある日「ある教会の人の話に私は心底共感した」と言っていたのですが、今度は又"別の新しい教会へ行ってみる"、と言います。
私は「教会廻りも楽しくて良いだろうけど、どうしてその共感したところでじっくりとそれを深めてみようとしないのですか?」と聞いてみたのですが、「別のところへ行けば、別の共感が得られるかもわからない」とか言って、この人は"どうも違う、いろんな教会を遍歴することが思いのクセになっている"ということが感じられました。
この二つの例というのは、何を隠そう私自身の思いのクセ、傾向としてある時期、ハッキリ有ったものなのです。
ただ私には、そうした思いに囚われている時でも、"こういうことを繰り返していても、心の底からの確信も平安も得られない..."という自覚意識はありました。(後者の場合、宗教遍歴ということで無しに、自分の魂にガツンと響くものに廻り会いたいという思いはぬぐい去り難く、根強くありましたが...)
この思いのクセは、私がある邪教集団に迂闊に近付いてしまい、恐ろしいメに合ってしまったことで、"宗教的世界には、興味本位、軽い中途半端な気持ちで近づくもんじゃない"ということが肝に命じて知らされ、離れられることが出来たのです。
そして一時的な意識障害のような状態を経て、何とも言えない平安に包まれるような感覚が意識に根付くようになったのです。
それからというもの、この免疫が出来たことにより、肝を据えて探究に勤しむこととなりました。(笑) 内的な促し無しに、軽い気持ちで道を求めることはなくなりました。
これは自ずと意識が、その内なる平安をもたらすものに向かわせられることでそうなるのです。
この自然的な意識付けのようなものによって、いたずらにトラワレの元になるものに思いが馳せて行くことが無くなりました。
逆に言えば、これが根付いていないために、皮相的なものに囚われてしまうのでしょう。
いつも思いのクセで、落ち着きなく心をさ迷せ、何かの観念に囚われているより、内なる平安に捉えられていたいものです。
それで"これでいいんだろうか?"という思いになるわけでなく、"これでいいi"という意識になります。
そこには、外向きに依存的な心的状態と自由で主体的なそれとの違いがあります。
まあ、自分の内なる声に得心いくまで尋ねてみることですね。
他人はともかく自分の魂は誤魔化せないもの...心底から"これでいいi"というまで...。




コメント (2)
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