人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

運命と自由意志

2017-09-23 00:02:11 | 哲学・思想
"人の人生は予め決まっていた。起こることが起きるだけ..."

運命、宿命、前世からのカルマ...何でもいいですが、こういうことを平然と宣っているヒマ人も世の中には居るらしいです。
御大層にもOO論などともっともらしい装いなんかして...
何でイチイチこういう言説を振りかざしているのかというと ...ただ、言ってみたかっただけでしょう...余程ヒマなようだ(笑)
昼前に一生懸命そんなこと言い表していて、"さあ、昼だi"ってなった時、間違いなく言っていたことを忘れるハズです。
"今日の昼飯は、ラーメンにしようか、カレーライスにしようか..." 人生は好きにしたらいいだけじゃないかi
人の生は予め決まっているか、どうかは知らんけど、メシを食うこと以上の真実は無いi
外出の際は、起こるべくして上からカラスのフンが落ちてきますから気をつけてね...。(あ、気をつけようのないことも運命なんだったっけ? んなもん、付き合えるかi)
しかし、ヒマ人の戯論はさておき、私は直接知らないけど、本当に分かっちゃった人も中には居るかもしれません。
だけど、そういう"運命の人"は、間違ってもヒマ人のように戯論を振りかざしたりなどしないだろうと思います。
自分自身のことについても、他に向けて軽々しく発信してしまうことについても、フツーじゃないこと、コワイことでしょ...
又、誰でも"これは運命なのか..."、とか"運命的出会い"と感じる瞬間というのもあることでしょう。
要するに、そう感じたのなら、それでいいのであって、ことさらに"決まったこと"にしようとするからオカシクなるのですi

精神世界の周辺には、長年の思いの集積によるのか、高次元のことや、前世、未来のことなど何ら確証の無いことにトラワレ続けている人が居ます。
そういう人でも神的なものとの出会いとか、精神の覚醒といったことについても一応頭では望んでいるらしいです。
でも、私にはその人は内心では、そんなことなどちっとも望んでなどいない、ということが感じられます。(その又心の奥のことは知りません)
だからずーっと仮想現実的なものにトラワレ続けているのでしょう。
本当に知らなければならない、リアルなものから逃避しているかのように...
思考を超えた自己の内奥に意識が向かわない、神的リアリティーに開かれないようなのです。
これが積年の思いの集積のなせるものなのでしょうか? これは運命、カルマなのでしょうか?
何回生まれ変わっても、同じことを繰り返し、同じところをグルグル周り続けるのでしょうか?
いや、思うにどうでもいいことにトラワレていて、リアルなものに向かわない人というのは、単純にその気が無いだけではないですか?
昼前には"覚醒しなければ、神と一つにならなければならない..."と一応思ってはみたが、昼になれば、メシを何にしようかということで忘れてしまうでしょう。当人にその気が無ければどうしようもありません。
そういう人はともかく、本当に真摯に求めている人には、このような決定論は何の救いにもなりません。
しかし、空想事でなく神的なものに意識が向けられた時、それまでと何かが違う、という感じをもたれては来ないでしょうか?
特別な神秘体験にトラワレていたら、気がつかないものですが、そうなれば自ずと心が開かれ、理屈抜きにそのものに惹き付けられていくことが分かってくるでしょう。
その時から運命は変わるかもしれない。もし、現臨に捉えられでもしたら...これこそは運命的なものじゃないでしょうか?
何故ならば、運命というのは、表向きの自分の意志で動かすことの出来ないことなのではありませんか?
それはしかし、諸々の思いを乗り越えた、一瞬のある決断、コミットメントによってもたらされるのです。
それを望むか、どうかは全くもってあなた次第ですi
運命と自由意志の奇しきタペストリーがあるから人生は面白いのです...。


コメント
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