前回の続きのようになりますが、ノンデュアリティというものには、"これが本当の..."といった、括りつけなど不可能なものでしょう。
だから、自称非二元論者がいっぱい居る訳ですね (笑)
"これが本当の..."と決めつけたら、そうでなくなる訳だし、"勝手に言ってれば"という他ないですね。
ただ、その究極の行き着く先には、本当に個的なものは、永遠の虚無へと解消されていってしまうものでしょう。
これを"究極の悟りだi"と言いたい向きもあるようですが、そう信じたいように悟ったという個人は永遠に居なくなるのです。
こういうのは、私という個人が無くなったように"感じたこと"を伝えているのです。つまり感じている人がそこに居なければならないのです。
これをぶっ越えて、本当に自分を消し去ろうと躍起になったりするのは、もう狂気の沙汰という他ありません。
そう駆り立てているのは、優劣の意識に捉われるなどして、究極のものに肖りたいというマインドでしょう。(私はネットか本で、そうした言辞に触れて、一気にノンデュアリティへの関心が冷めたことがあります)
そうなる手前で挫折するのは幸運というべきで、心身に異常を来すことにもなりかねません。
あるいは、表層では分からない魂の方が、そう望んでいるのかも分かりません。これは極端な例でしょうね。
もっとも我々は皆人生のあらゆる面で、魂が望むままに歩まされているのかも分かりませんが...
所謂ノンデュアリティの多くは、その境地に愛や幸福が満ちていることを伝えています。(でなきゃ誰も関心を寄せませんよね)
それは永遠の虚無というものとは全く違うニュアンスのものです。"幸福ある天国"の消息です。
くどいようですが、そう感じてる人が言っている訳ですが、その語り口からは、苦しみに満ちたこの現実世界からの解放という願望が感じられます。
私はある瞑想会で、瞑想に深く入り込んでしまって、爆睡なんてどころでなく、なかなか覚めない、起きないという事態になってしまった例に接したことがあるのですが、インド辺りでは瞑想に入ったまま、野垂れ死にしてしまうケースもままあるように聞いてますし、そういう例も少なくないようです。
そういう人というのは、どういう意識状態なのかは、なったことが無いので分かりませんが、(一概に言えることじゃないですが)あっちの世界に惹き付けられしまって、この現実に戻ることが困難になってしまうのでしょうか?
これとは違いますが、"戻れなくなるかもしれない"という契機にあったことはあります。人生の裏側に入り込んでしまった時のことですが、本当に"このまま果ててしまっても構わない"と感じたものです。
こういう話というのは、この現実世界の有り様に照らせば、実に危険な香りのするものですが、魂のレベルのことに照らせば、私には善悪、正邪の判断は決めかねるものがあります。
ミタマの因縁によっては、現世に戻らない運命を歩まされるものもあり得るのでしょう。
その場合では、表層意識では、避けられない運命のようなものとして示されるのかもしれません。
しかし、魂の内から来るものでなく、外からの惑わしであることもあり得ることで、今日では、自殺者の増加やノンデュアリティの流行などに伺えるように、現実世界から離れようとさせる見えない動きが強くなってきているようです。
私の場合、今こうして居られるということは、魂はこの世にとどまることを望んでいたということでしょう。
ああなっていた間、ずっと"見えざる導師"と言葉を越えた内的な交流がもたらされていたのですが、導師からは"(裏側の)ここに居れ"とも"(表側)に帰れ"とも促しを受けませんでした。私の自由意志にゆだねられたようなのです。
ただ、日常の意識が戻りつつあった時(これは私が望んだことに他なりません)、こう告げられたことは、強く魂に刻まれています。
"如何なる時も私につながっていなさいi、私がお前と共にあることを忘れないでほしい..."
今、ここに居る皆さんは、ここに生きていることにこそ、意味があり、魂が望んでいることに違いないハズです。
そのことをなおざりにして、いたずらにあっちの世界に眩惑され、委ねてしまうことは、自己の魂への裏切りになるでしょう。
頭の中のきらびやかなものでなく、ハートに尋ねることが大切なのです。
私にはそれは"身に覚えられていること"と共にあるものなのです。
だから、自称非二元論者がいっぱい居る訳ですね (笑)
"これが本当の..."と決めつけたら、そうでなくなる訳だし、"勝手に言ってれば"という他ないですね。
ただ、その究極の行き着く先には、本当に個的なものは、永遠の虚無へと解消されていってしまうものでしょう。
これを"究極の悟りだi"と言いたい向きもあるようですが、そう信じたいように悟ったという個人は永遠に居なくなるのです。
こういうのは、私という個人が無くなったように"感じたこと"を伝えているのです。つまり感じている人がそこに居なければならないのです。
これをぶっ越えて、本当に自分を消し去ろうと躍起になったりするのは、もう狂気の沙汰という他ありません。
そう駆り立てているのは、優劣の意識に捉われるなどして、究極のものに肖りたいというマインドでしょう。(私はネットか本で、そうした言辞に触れて、一気にノンデュアリティへの関心が冷めたことがあります)
そうなる手前で挫折するのは幸運というべきで、心身に異常を来すことにもなりかねません。
あるいは、表層では分からない魂の方が、そう望んでいるのかも分かりません。これは極端な例でしょうね。
もっとも我々は皆人生のあらゆる面で、魂が望むままに歩まされているのかも分かりませんが...
所謂ノンデュアリティの多くは、その境地に愛や幸福が満ちていることを伝えています。(でなきゃ誰も関心を寄せませんよね)
それは永遠の虚無というものとは全く違うニュアンスのものです。"幸福ある天国"の消息です。
くどいようですが、そう感じてる人が言っている訳ですが、その語り口からは、苦しみに満ちたこの現実世界からの解放という願望が感じられます。
私はある瞑想会で、瞑想に深く入り込んでしまって、爆睡なんてどころでなく、なかなか覚めない、起きないという事態になってしまった例に接したことがあるのですが、インド辺りでは瞑想に入ったまま、野垂れ死にしてしまうケースもままあるように聞いてますし、そういう例も少なくないようです。
そういう人というのは、どういう意識状態なのかは、なったことが無いので分かりませんが、(一概に言えることじゃないですが)あっちの世界に惹き付けられしまって、この現実に戻ることが困難になってしまうのでしょうか?
これとは違いますが、"戻れなくなるかもしれない"という契機にあったことはあります。人生の裏側に入り込んでしまった時のことですが、本当に"このまま果ててしまっても構わない"と感じたものです。
こういう話というのは、この現実世界の有り様に照らせば、実に危険な香りのするものですが、魂のレベルのことに照らせば、私には善悪、正邪の判断は決めかねるものがあります。
ミタマの因縁によっては、現世に戻らない運命を歩まされるものもあり得るのでしょう。
その場合では、表層意識では、避けられない運命のようなものとして示されるのかもしれません。
しかし、魂の内から来るものでなく、外からの惑わしであることもあり得ることで、今日では、自殺者の増加やノンデュアリティの流行などに伺えるように、現実世界から離れようとさせる見えない動きが強くなってきているようです。
私の場合、今こうして居られるということは、魂はこの世にとどまることを望んでいたということでしょう。
ああなっていた間、ずっと"見えざる導師"と言葉を越えた内的な交流がもたらされていたのですが、導師からは"(裏側の)ここに居れ"とも"(表側)に帰れ"とも促しを受けませんでした。私の自由意志にゆだねられたようなのです。
ただ、日常の意識が戻りつつあった時(これは私が望んだことに他なりません)、こう告げられたことは、強く魂に刻まれています。
"如何なる時も私につながっていなさいi、私がお前と共にあることを忘れないでほしい..."
今、ここに居る皆さんは、ここに生きていることにこそ、意味があり、魂が望んでいることに違いないハズです。
そのことをなおざりにして、いたずらにあっちの世界に眩惑され、委ねてしまうことは、自己の魂への裏切りになるでしょう。
頭の中のきらびやかなものでなく、ハートに尋ねることが大切なのです。
私にはそれは"身に覚えられていること"と共にあるものなのです。