人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

幸福なき天国

2017-09-26 16:53:17 | スピリチュアル
「厳の御霊の大神のみを認めて、瑞の御霊の大神を否むがごとき信条の上に、安心立命を得むとするものは、残らず高天原の圏外に放り出されるものである。かくのごとき人間は、高天原よりかつて何等の内流なきゆえに、次第に思索力を失い、何事につけても、正当なる思念を有し得ざるに立ちいたり、ついには精神衰弱して...餓鬼、幽霊のごとくなってしまふものである」(出口王仁三郎「霊界物語第47巻.愛と信」)

大本では、出口なお刀自が取り次いだ厳の御霊と、出口聖師が主として取り次いだ瑞の御霊という二つの神格を表しています。
両者が統合されたイヅノメの御霊(聖師が取り次いだ)というのもあったり、詳しく書いていくと迷路に入り込みそうになるのですが、単純に前者は霊系、後者は体系ということとされています。
これは我々が直接知ることの出来ない、神的ハタラキの側面を神話的表現を借りて言い表しているのでしょう。(こういうものは、伝えられていることに囚われないで、"借りる、仮のものとする"という心の姿勢が大切なのです)
聖書的に前者をエホバ、後者をキリスト(実際に聖師はそのように比定しているところがあります)をイメージすると分かりやすいかもしれません。父なる神、万有の主宰神、統治神と、母なる神(聖書の宗教には無いが)、子なる神、救世主、救済神の違いということになるでしょうか...
私はこのブログで神的なものを、愛、幸福、平安といったものと結びつけて語ってきました。
それは、神的なものが"私がここにある"という、私の真実と一点たりとも切り離されていないからこそ言えることなのです。
本当の疑うことなき実感というものはそこから生まれるのです。愛と平安の実感こそが救いというものではないでしょうか?
そこには宇宙の法則とか、ある一なる力の支配といったものへの直接的感受は出てこないのです。
もし、どうにも救いようのないこの私が、万有を治めている、宇宙法といったものに照らされるならば、愛と平安に預かることなど到底あり得なくなることでしょう。
私は愛なる神によって支配され、そのものにゆだねられるのですi 
そのものによらずば、私はどこにも導かれることもなく、もはやここに生きてなど居ないでしょう。
もし覚醒、エンライトメントというものが、そのものによらずなされるとしたら...(私にはそれ自体考えられないことなのですが)、おそらく今日流行のノンデュアリティでない、実質的な非二次元的領域に行き着くでしょう。
そこには、そう感受出来る自己も無くなるゆえ、苦悩も無ければ、愛も幸福も平安も無いでしょう。そして自称非二次元論者の標榜する、宇宙的全体、一なるものと一体になるといった境地すらも...
おそらく...(消えたハズのものが最近、元メイドさんによってそのブログが復活した)故エンライトさんはそこに踏み入れてしまったのでしょう。
彼が何度も自称非二元論者が、この辺りのことを曖昧なままにして、安易に"個は居ない、全体があるだけ..."と、空虚な天国へと誘導しようとすることに警鐘を鳴らしていたのはよく分かります。
それが実質的に行き着く先は、死人か廃人の世界でしょう。
これは、ことの善悪ではなく、この現実世界に生きている、生かされているという当たり前の見地から言っているのです。
愛や幸福というものは、この"私はここにある"という現実から離れてはあり得ないのです。
そしてこの世にある人間で、それを求めぬ者など居るでしょうか?
私が現臨と呼んでいるものが、直ちに大本で言う瑞の御霊なのかどうかは分かりませんが、言えることは、それはこの二元的現実と一元的彼岸、個的なものと普遍的なものをつないでいるものです。
このもの無くしてワンネスと一つになるということも無いのです。「私を見たものは父を見たのである」(ヨハネ伝第14章)
それは神的な愛の内にあるものです。この事が蔑ろにされ、空や無になることばかりが一人歩きする時、幸福なき天国、永遠の虚無への誘惑が忍び寄るでしょう ...。
コメント
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