人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

十字架と復活の内実

2018-05-22 18:10:36 | キリスト教関連
"ただ、信じていればいい"という信仰は、どこまでも観念世界を超えることは無く、ヴァーチャルなものに過ぎません。
それで何かの心の慰みになるというのなら、構やしないのでしょうが、内的実存はいつまでも開かれることはありません。
だから、観念信仰を通して内的なものが開らかれ、そこに有る(かもしれない)至福に預かろう、と期待することは間違っているのですi
宗教には、こうした信じる信仰というものが付き物ですが、その最たるものはキリスト教でしょう(だから、アタシゃ大キライですi)。
その信仰の根幹的ものは、"十字架と復活"でしょう。いつまでもいつまでも、自分をどっかに置いて、十字架と復活のキリストを見上げてて楽しいんですか?...自分は罪深いことを信じているのか、罪を許されたことを信じているのかどっちなのだろう...
それはともかく、信仰はヴァーチャルなものと言いました。しかし、そう言い得るということは、何がしかの内実がそこに有るということではないでしょうか?
私はクリスチャンでもなく、"十字架と復活"の教理を信じている訳でもありません。
しかし...その内実とおぼしきものは知らされています。もう、その事に意識が向いただけで全心身が揺さぶられそうになります。
十字架と聖霊に関することは何度も触れています。それは小池辰雄先生からインスパイアされたものですが、私はそれが人間の内的実存に開示される事態であることを感じざるを得ません。
小池先生はしかし、"復活"に関しては、「キリストは永遠に行き通しの命なんです。だから"死んで復活した"とか言うのは相応しくないです」とかいつも述べておられましたが、ある面ではそうかもしれませんが、私はこの事は、我々一人一人の死んだように眠っている魂にとり、絶大な意味を持つものだと思います。
つまり、蘇って来るもの、復活するものは、我々の神的なものに連なる、キリスト意識とも言うべき意識なのです。
それは思われた自己、表層の意識だけに覆われたままでは開かれてきません。
何故、それに与れるのかと言えば、"十字架の道"を通らされるからですi 十字架...それは犠牲なのか?、苦難を背負うことなのか?、あるいはその道を通ることで我々の罪は贖われるのか? そういうことは、正に我々の"考えていること"のうちにしか無いのでしょう。
十字架の道は、無の道なのです。我々の思いを超えた領域で起きることであり、そこから照らされるままに示されることなのです。
そこで罪が贖われる、罪が消えるかどうかは知りません。しかし、私の経験に照らせば、罪に苛むガンジガラメの意識から解放されたのは確かなことです。
罪...より原初的なものは原罪と言います。それは思われたものより、遥かに根が深いものであり、物心付く以前から意識の底に根付いたものというのが分かります。これが我々の神的なものとのつながりを隔ててきたものに違いないでしょう。
贖罪とは、聖書にある通り、神との間を覆う幕が取り払われ、顔と顔を合わせて相見えることが許されるということでしょう。
しかし...別の面ではこの罪意識があるために、取り返しのつかない過ちから防いでいるとも言えるかと思います。
その過ちについてはハッキリ、詳しいことは言えませんが、自我意識が無化されないまま神的なものとつながってしまうことで、自我が肥大し、モンスター化して暴走してしまうような事態と言ってもいいでしょうか?
神秘体験とかぶっ飛んだらいいってもんじゃない...そうなってしまうくらいなら、ずっと毒にも薬にもならない信仰を続けた方がはるかにマシだ、と言いたいi
十字架の道とは神と人間との"健全"な和解、調和の道と言えるでしょう。
ところで、ルドルフ.シュタイナーによればキリスト.イエスの事蹟というのは、古代宗教で密儀として行われていたことを現実世界で展開したという意味合いがあったそうです。
そういう意味では"犠牲"、"贖罪"と共に"復活"の事態を示すことも欠かせないものだったのでしょう。
現実とは何でしょう。我々一人一人の内的な現実を置いて他には無いのではありませんか?
私はキリスト教に隠された内実に限りなく惹かれるものがあります。
コメント (2)
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