人は誰でも一度は、"何故生まれて来たのか?、何のために生きているのか?"ということに思いを致すことがあるでしょう
そして、誰もそれに対して明言することが出来ず、特別意識することなく生き続けているのです。
誰かがご名答らしきことを示したところで、あなた自身が得心しないことにはその事は明らかにはならないでしょう。
どこまでも、自分自身で生きていくことを通してしかそのことは分からないでしょう。(人から示されたことでも、それが媒体となって得心することはあります)
しかし、それは永久に分からないことなのかも分かりません。でも生き続けなければならない...
何故ならば、自分がここに生きていることは、そう仕組まれているようにしか感じられないから...
心臓が鼓動している...息を吸ったり、吐いたりしている..."今日は何をしようか"と意味が有るのか、無いのか考えている...
私はこうした物心付く以前から、どういう訳でか、与えられ、備えられていることを"持ち前"と呼んでいます。
それはもって生まれたもののことですが、男に生まれた、日本に生まれた、いつ、どこに生まれたとか運命的なものも含めてそう呼んでいます。
持ち前のものは、それが嫌いだろうと、無くしたいと思おうと、それを認め、受け入れないと生きて行くことが出来ません。
"自分が嫌い、自分を受け入れたくない"という人を何人か知ってますが、それは果たして本当に自分自身から発しているものなのでしょうか?
"それじゃ、ダメi、お前は悪いi、間違っているi、大ッキライi"という、誰かの、世の中の声なんじゃないですか?
そういうことを意識してない時というのは、案外独りで自分が好きなことをやってるのではないですか?
"誰からも相手にされない"と思っている人は、そうでもせずにいられないかもしれません。
自分が好きなことというのは、それをやってる自分を受け入れなければ出来ません。(つまりは意識するしないに関わらず、そうなっている自分が好きなのです)
周りでなく、自分自身に意識が向かっている時、誰しも自分を認め、受け入れているのではないでしょうか?
もし、もっと興味が沸いてきて、喜びを見出だすようになれば、自分の持ち前も受け入れられるでしょう。
今の喜びは、そのものに依ってもたらされているからです。
自分を受け入れることは、神と言ってもいいですが、そうあらしめているものを受け入れることと一つなのです。
そして、そこから自分が思っている以上の幸福が開かれてくるでしょう。
今、幸福に感じられたら、それまでの自分、自分の運命、持ち前...すべてが幸福に感じられます。
それは他人事でなく、自分自身で感じなければなりません。他に代えることの出来ない自分で...
連日嫌なニュースが多い中で、事故で車椅子生活を余儀なくされてしまった地下アイドルの「私は生きています。この事だけは何にも代えることの出来ない神様からのプレゼントだと思っています」のコメントには本当に心が揺すぶられました。
何も難しい事は言う必要ありません。こうした言葉にすればありふれたようなものこそが基調であり、後の事はそのヴァリエーションに過ぎないようなことです。
しかし、毎回、毎回それが"思っていること"でなしに、言葉にならない"生そのもの"にハートをタッチされたなら、そこには聞き慣れた言葉なんてものは何一つありません。新たに"生きて、生かされている"ことに向き合わされるだけです。
そして、誰もそれに対して明言することが出来ず、特別意識することなく生き続けているのです。
誰かがご名答らしきことを示したところで、あなた自身が得心しないことにはその事は明らかにはならないでしょう。
どこまでも、自分自身で生きていくことを通してしかそのことは分からないでしょう。(人から示されたことでも、それが媒体となって得心することはあります)
しかし、それは永久に分からないことなのかも分かりません。でも生き続けなければならない...
何故ならば、自分がここに生きていることは、そう仕組まれているようにしか感じられないから...
心臓が鼓動している...息を吸ったり、吐いたりしている..."今日は何をしようか"と意味が有るのか、無いのか考えている...
私はこうした物心付く以前から、どういう訳でか、与えられ、備えられていることを"持ち前"と呼んでいます。
それはもって生まれたもののことですが、男に生まれた、日本に生まれた、いつ、どこに生まれたとか運命的なものも含めてそう呼んでいます。
持ち前のものは、それが嫌いだろうと、無くしたいと思おうと、それを認め、受け入れないと生きて行くことが出来ません。
"自分が嫌い、自分を受け入れたくない"という人を何人か知ってますが、それは果たして本当に自分自身から発しているものなのでしょうか?
"それじゃ、ダメi、お前は悪いi、間違っているi、大ッキライi"という、誰かの、世の中の声なんじゃないですか?
そういうことを意識してない時というのは、案外独りで自分が好きなことをやってるのではないですか?
"誰からも相手にされない"と思っている人は、そうでもせずにいられないかもしれません。
自分が好きなことというのは、それをやってる自分を受け入れなければ出来ません。(つまりは意識するしないに関わらず、そうなっている自分が好きなのです)
周りでなく、自分自身に意識が向かっている時、誰しも自分を認め、受け入れているのではないでしょうか?
もし、もっと興味が沸いてきて、喜びを見出だすようになれば、自分の持ち前も受け入れられるでしょう。
今の喜びは、そのものに依ってもたらされているからです。
自分を受け入れることは、神と言ってもいいですが、そうあらしめているものを受け入れることと一つなのです。
そして、そこから自分が思っている以上の幸福が開かれてくるでしょう。
今、幸福に感じられたら、それまでの自分、自分の運命、持ち前...すべてが幸福に感じられます。
それは他人事でなく、自分自身で感じなければなりません。他に代えることの出来ない自分で...
連日嫌なニュースが多い中で、事故で車椅子生活を余儀なくされてしまった地下アイドルの「私は生きています。この事だけは何にも代えることの出来ない神様からのプレゼントだと思っています」のコメントには本当に心が揺すぶられました。
何も難しい事は言う必要ありません。こうした言葉にすればありふれたようなものこそが基調であり、後の事はそのヴァリエーションに過ぎないようなことです。
しかし、毎回、毎回それが"思っていること"でなしに、言葉にならない"生そのもの"にハートをタッチされたなら、そこには聞き慣れた言葉なんてものは何一つありません。新たに"生きて、生かされている"ことに向き合わされるだけです。