私はこれまでいくつか宗教、スピと関わりを持ってきましたが、その多くのグループに教祖なり、創始者、指導者、つまりその師に当たる人に対して程度の差はありますが、樽奉の念というものが浸透していたように感じられました。
直接そういう声は聞こえてこないものでも、例えば"自分たちは正統なキリストの福音に則っている"、"ブッダに連なる正伝の仏法を伝えている"、と謳っているものでも、その師がその道に連なっているから、そう言い表しているのでしょう。
そして異口同音にその道に従い、後継するという者からは、"師の残した、伝えた道を誤りなく、正しく伝える"という、心意気みたいなものが聞かれたものです。そこには従うべき定められた道というものがあるかのように語られるのです。
それも理解出来なくもないですが、そうした生き方が強固になると、狂信と言われる傾向ももたげてくる訳ですね。
そうなると、その教えに違うもの、歪曲するものは、異端者、反逆者と見なされます。
集うものたちにも、その教えに自分の考え、感じたものを差し挟むことは間違い、悪いことのように刷り込まれているようです。
"あー、めんどくせーi"
そう、私もそういう空気の中にあって、そういう刷り込みも受けたこともあります。しかし、一度も心がスッキリ、何のわだかまりもない、という風になったことは一度もありません。
ずっとこのブログを読まれている方ならお分かりのように、私はほとんどOO教徒、OO学派、OOの弟子として、その事を意識して歩んでこなかったし、それらと関わっていた時でもそうした自覚など無かったのです。
こういう人間がそういうものに足を突っ込むこと自体が間違いだったのかもわかりませんが、とにかくそこには自分を超えた何ものかに取り込まれている、という感じがしたものです。
そこに取り巻いているものは、集合的、集団的無意識というべきか? ともかくそこには、自己というものが押し殺され、自己信頼が欠如しており、主体としての自己は集団的なものに隷属されているのです。
自己というのは、忌まわしきエゴだし、サタンの回し者だし、神である師にもとるものなんですからね。そこには根強い罪の意識が横溢しています。
自分の考え、感じたことは出してはイケナイ...成る程異端者、反逆者、別の面での自由主義者は"我々の正統なる教えの上に、ケッタイな即席の新(珍)教義を作り出して歪曲、脱線して憚らないかもしれない...それはおそらく"思考錯誤"の産物でしょう。
でも、それは狂信的原理主義と形も方向も違えど、根底にあるものは変わりが無いでしょう。
(自由の全く無い、通気孔が塞がった状態でなければマシだと思います)
そこにはずっと集合的、あるいは自我的思考が取り巻いており、私自身の真の神の通路が閉ざされているのです。
もし、ある契機に自分を超えた、思いを超えた神的なものが開かれ、真我的なものの気付きが起きたらどうするんでしょうか?...それでも自分以外の何かの教えを奉っていないとならないでしょうか? それでも自分の魂を、自分の神を"異なれる神"にゆだねたままにするのですか?
脱線というのはこうした逸脱に他ならないのです。
自己信頼という...自己は思考だらけの自我でしかないのかもしれません。それは超えられないとならないでしょう。しかし、そのろくでもない自己を通して、自己を超えたものが現れるのです。...それは"大本の自己"、"我ならぬ我"...先の集合的、集団的無意識はこのものと切り離されているのです。
誰それの正しい道、教えというものがその前に一体何だって言うのでしょうi
すべてはそのものとの邂逅のためだったのでは...この通路が塞がってしまっては何にもならないではありませんかi
そして、本当に古来から普遍的に伝えられた道とは、自己という門を通して心から心へ伝えられていくものでしょう。
道は数多あって何が正しくて何が間違っているのか分かりません。
その前に既存の正しい、定められたOOの道というものを設えてしまうことは、脱線につながるでしょう。
そういう道が有ろうと無かろうと、どっかで常に"道なき道"に開かれていなくてはならないのです。
自分自身がそこで生きられないのなら、その道こそ根本的に間違っているのですi
あなたと私の神を押し殺したならば、もうこの世界は終わりですから...
直接そういう声は聞こえてこないものでも、例えば"自分たちは正統なキリストの福音に則っている"、"ブッダに連なる正伝の仏法を伝えている"、と謳っているものでも、その師がその道に連なっているから、そう言い表しているのでしょう。
そして異口同音にその道に従い、後継するという者からは、"師の残した、伝えた道を誤りなく、正しく伝える"という、心意気みたいなものが聞かれたものです。そこには従うべき定められた道というものがあるかのように語られるのです。
それも理解出来なくもないですが、そうした生き方が強固になると、狂信と言われる傾向ももたげてくる訳ですね。
そうなると、その教えに違うもの、歪曲するものは、異端者、反逆者と見なされます。
集うものたちにも、その教えに自分の考え、感じたものを差し挟むことは間違い、悪いことのように刷り込まれているようです。
"あー、めんどくせーi"
そう、私もそういう空気の中にあって、そういう刷り込みも受けたこともあります。しかし、一度も心がスッキリ、何のわだかまりもない、という風になったことは一度もありません。
ずっとこのブログを読まれている方ならお分かりのように、私はほとんどOO教徒、OO学派、OOの弟子として、その事を意識して歩んでこなかったし、それらと関わっていた時でもそうした自覚など無かったのです。
こういう人間がそういうものに足を突っ込むこと自体が間違いだったのかもわかりませんが、とにかくそこには自分を超えた何ものかに取り込まれている、という感じがしたものです。
そこに取り巻いているものは、集合的、集団的無意識というべきか? ともかくそこには、自己というものが押し殺され、自己信頼が欠如しており、主体としての自己は集団的なものに隷属されているのです。
自己というのは、忌まわしきエゴだし、サタンの回し者だし、神である師にもとるものなんですからね。そこには根強い罪の意識が横溢しています。
自分の考え、感じたことは出してはイケナイ...成る程異端者、反逆者、別の面での自由主義者は"我々の正統なる教えの上に、ケッタイな即席の新(珍)教義を作り出して歪曲、脱線して憚らないかもしれない...それはおそらく"思考錯誤"の産物でしょう。
でも、それは狂信的原理主義と形も方向も違えど、根底にあるものは変わりが無いでしょう。
(自由の全く無い、通気孔が塞がった状態でなければマシだと思います)
そこにはずっと集合的、あるいは自我的思考が取り巻いており、私自身の真の神の通路が閉ざされているのです。
もし、ある契機に自分を超えた、思いを超えた神的なものが開かれ、真我的なものの気付きが起きたらどうするんでしょうか?...それでも自分以外の何かの教えを奉っていないとならないでしょうか? それでも自分の魂を、自分の神を"異なれる神"にゆだねたままにするのですか?
脱線というのはこうした逸脱に他ならないのです。
自己信頼という...自己は思考だらけの自我でしかないのかもしれません。それは超えられないとならないでしょう。しかし、そのろくでもない自己を通して、自己を超えたものが現れるのです。...それは"大本の自己"、"我ならぬ我"...先の集合的、集団的無意識はこのものと切り離されているのです。
誰それの正しい道、教えというものがその前に一体何だって言うのでしょうi
すべてはそのものとの邂逅のためだったのでは...この通路が塞がってしまっては何にもならないではありませんかi
そして、本当に古来から普遍的に伝えられた道とは、自己という門を通して心から心へ伝えられていくものでしょう。
道は数多あって何が正しくて何が間違っているのか分かりません。
その前に既存の正しい、定められたOOの道というものを設えてしまうことは、脱線につながるでしょう。
そういう道が有ろうと無かろうと、どっかで常に"道なき道"に開かれていなくてはならないのです。
自分自身がそこで生きられないのなら、その道こそ根本的に間違っているのですi
あなたと私の神を押し殺したならば、もうこの世界は終わりですから...