世の中間違っている...
ほとんどの人は、そう感じながら生きているんじゃないでしょうか?
何が正しくて、何が間違っているのかは分からなくとも...
私が今朝感じたことと言えば...
"な、なぬっi このブログのIP数がもうじき10万に達しようとしているではないかi これはゼッタイ何かの間違いに違いないi こんな何の役にも立たない自己満足満載ブログなのに...世の中こんなに物好きな人が多いとは...こりゃあ、世界の終わりも近いか?..."
私は心がねじ曲がっているのか、イロイロと批判的なこともつい言いたくなったりするのですが、よく考えてみるとそのすべてが短絡的に"間違ってますi"とは決めつけられないことのように思えます。
例えば、いつも呟いている"抽象的なヴァーチャルな教えを無批判に信じ込んだって、リアルな神的なものとはつながらない"ということでも、それはそのことについて言えば間違っているのかも知れませんが、その信仰に勤しむことで何らかの心の慰み、いくらかの平安というものを受けているのなら、ずっとそのような端からは習慣的、惰性的とも思える信仰生活を続けてようと、当人には正しいことかも分からないのです。
大体において、私がそうした批判的なことを書く場合は、個人的に縁のある特定の人間を念頭に入れていることが多く、そのすべての人に当てはまらないのは当然のことなのです。
先の例でも特定の教えに執心しているような人でも、人によっては「それはいいi どんどん信仰に励んで下さいi」と言うかもしれません。
とにかく、理屈なしに惹かれるもの、平安で居られる何かが感じられるのであれば、他人が何をほざこうが、いいに決まってます。
ま、"私は悟りたい、神と一つになる"とか御大層なこと言うんなら、"エエ加減に目を覚ました方がいい..."ということです。(イロイロな意味で)
元波動瞑想を指導しているK先生は、やたらと「それは、間違ってますi」と言うのが口癖でした。
例えば、確か「精神的な道を社会生活に適応させるのは間違いです」という意味のことを言われていたと思いましたが、私はそれを聞いて"ケース.バイ.ケースじゃないかなあ?"と感じたものです。ま、私のようにヘンテコな人間と周囲に思われたくなければ、そういうことはしない方がいいと思いますが(笑)
私はその瞑想会で、そのシンプルで無為的な元波動瞑想の他に、フツーにヨガなどで伝播されている、意識を人為的な意念を用いて、あるイメージとか音とか何かに集中させる瞑想を伝授されたことがあるのですが、それは無為的な自然な意識の有り様を妨げるもので、この点で私にとっては間違いだと気付いたことがあります。
他の人に当てはまるかどうかは分からないですが...考えようによってはそのことに気付き、学ぶ機会が与えられたことは間違いでは無かったのかも分かりません。
間違いというのは、このように当人に何らかの不都合、ズレたことといったものが認識されるものであり、そのことに気付いてこそ、そうなのではないでしょうか? そうでなければ"間違いでは無い..."と言っていいでしょう。
宗教、スピ界隈では得てして、"先生がそう言っていたから...聖書に書いていないから...その教えと違うから..."と、その問題が自分自身のこととして、意識が向けられることなく短絡的に権威に映るものに迎合してしまう傾向が見られます。
これでは何が間違いかも本当には認識されず、それを通して学ぶことも出来ないでしょう。
このイロイロな人が居て、イロイロ観方が交錯している世の中では簡単に"それ、間違ってますi"と決めつけられません。
強いて言えば...自分も他も傷つけ、自分も他も生きようとしていることにフタを閉め、覆いをかけようとすることがそうなのでしょうか...
これは"自分を信頼し、受け入れること"という在り方をひっくり返したところにあることです。
良くも悪くも、正しくても間違っていても、ありのままの自分を受け入れなければ、いいことは何も始まってこないでしょう。
このことは実に私がK先生と同調していることなのです。
ほとんどの人は、そう感じながら生きているんじゃないでしょうか?
何が正しくて、何が間違っているのかは分からなくとも...
私が今朝感じたことと言えば...
"な、なぬっi このブログのIP数がもうじき10万に達しようとしているではないかi これはゼッタイ何かの間違いに違いないi こんな何の役にも立たない自己満足満載ブログなのに...世の中こんなに物好きな人が多いとは...こりゃあ、世界の終わりも近いか?..."
私は心がねじ曲がっているのか、イロイロと批判的なこともつい言いたくなったりするのですが、よく考えてみるとそのすべてが短絡的に"間違ってますi"とは決めつけられないことのように思えます。
例えば、いつも呟いている"抽象的なヴァーチャルな教えを無批判に信じ込んだって、リアルな神的なものとはつながらない"ということでも、それはそのことについて言えば間違っているのかも知れませんが、その信仰に勤しむことで何らかの心の慰み、いくらかの平安というものを受けているのなら、ずっとそのような端からは習慣的、惰性的とも思える信仰生活を続けてようと、当人には正しいことかも分からないのです。
大体において、私がそうした批判的なことを書く場合は、個人的に縁のある特定の人間を念頭に入れていることが多く、そのすべての人に当てはまらないのは当然のことなのです。
先の例でも特定の教えに執心しているような人でも、人によっては「それはいいi どんどん信仰に励んで下さいi」と言うかもしれません。
とにかく、理屈なしに惹かれるもの、平安で居られる何かが感じられるのであれば、他人が何をほざこうが、いいに決まってます。
ま、"私は悟りたい、神と一つになる"とか御大層なこと言うんなら、"エエ加減に目を覚ました方がいい..."ということです。(イロイロな意味で)
元波動瞑想を指導しているK先生は、やたらと「それは、間違ってますi」と言うのが口癖でした。
例えば、確か「精神的な道を社会生活に適応させるのは間違いです」という意味のことを言われていたと思いましたが、私はそれを聞いて"ケース.バイ.ケースじゃないかなあ?"と感じたものです。ま、私のようにヘンテコな人間と周囲に思われたくなければ、そういうことはしない方がいいと思いますが(笑)
私はその瞑想会で、そのシンプルで無為的な元波動瞑想の他に、フツーにヨガなどで伝播されている、意識を人為的な意念を用いて、あるイメージとか音とか何かに集中させる瞑想を伝授されたことがあるのですが、それは無為的な自然な意識の有り様を妨げるもので、この点で私にとっては間違いだと気付いたことがあります。
他の人に当てはまるかどうかは分からないですが...考えようによってはそのことに気付き、学ぶ機会が与えられたことは間違いでは無かったのかも分かりません。
間違いというのは、このように当人に何らかの不都合、ズレたことといったものが認識されるものであり、そのことに気付いてこそ、そうなのではないでしょうか? そうでなければ"間違いでは無い..."と言っていいでしょう。
宗教、スピ界隈では得てして、"先生がそう言っていたから...聖書に書いていないから...その教えと違うから..."と、その問題が自分自身のこととして、意識が向けられることなく短絡的に権威に映るものに迎合してしまう傾向が見られます。
これでは何が間違いかも本当には認識されず、それを通して学ぶことも出来ないでしょう。
このイロイロな人が居て、イロイロ観方が交錯している世の中では簡単に"それ、間違ってますi"と決めつけられません。
強いて言えば...自分も他も傷つけ、自分も他も生きようとしていることにフタを閉め、覆いをかけようとすることがそうなのでしょうか...
これは"自分を信頼し、受け入れること"という在り方をひっくり返したところにあることです。
良くも悪くも、正しくても間違っていても、ありのままの自分を受け入れなければ、いいことは何も始まってこないでしょう。
このことは実に私がK先生と同調していることなのです。