精神的な道に関心を持った人なら一度は"今よりも、もしくは今のダメな段階より上の段階を目指そう...そうして一歩一歩神に近づいて行こう..."という心持ちを持ったことがあることでしょう。
今のダメな、低い段階は見たくない、認めたくない...だから上へ、上へと思いが馳せてゆくのでしょう。
そうして又..."悪い、低い段階のことはやらないのは勿論、思わない...やってはいけない、思ってはいけない..."
"善なる、調和ある高い段階のことを行い、思い続ける..."
もう、出来もしないことのオンパレードじゃありませんか?
出来ないことは、ただそうやろうと思っているしかありません。
今の現実に意識が向けられることなしに...現状のことにフタをして、その上にどんどん何かを加えて行くように...
"いや、すべてを捨てちゃえばいいんですi"、って...だから、やってみればっつーのi
そして又、どんどん思いは馳せ巡り続ける...
それで本当に神的なものに近づいて行くのでしょうか?
トコトン、トライし続け、上へ上へと思いを巡らし続けてみたら、あるいは気付くことがあるかもしれません。
"すべてはムダな試みだった...ずっとずっと僕はダメなままだった..."
その気付きは全くムダではありませんi その間費やした時間も努力も苦心も(多分)
自分がダメなのか、神に等しいものなのかはともかく、そこに要らん解釈や判断もなく、何も付け加えることのない状態こそが今の現実というものです。
それを受け入れることが、取りも直さず自己を受け入れるということです。だからと云って"自分を受け入れなきゃならないダメ"な訳でもないですよ(笑)
これはまず、そういう意識状態になってみないと分からないことなのかも分かりません。そういう時は一瞬でも思いから離れているものです。
そう思わなくっても、そうなっている...これが"意識が向く"とか言ってることに通じてくるのです。
これは"向けよう"ということとは違うのです。自ずとそうなる、そうならざるを得ないi もう、毎度のことながら、この事を書いている最中にそうなる...何故か?
そうさせる、そうならざるを得ないものが臨んでいるから...そうなると"今の現実に気付く"というよりも、ただ現臨を頂くということがあるだけです。そうです。それで思いを超えて、全託せしめられるのですi
こう思うとつくづく感じてきます。
"我々が神に近づこうと上へと目指すより先に、神は我々に近づきたもう、上昇しようとする先に下降したもうのである"、と。
神的なものがこちらに降って来ることが無ければ、そのものと触れることも、関わることも出来ないのです。
神は自分とは遠いもの、上に向かって険しい道を辿らなければ、至れないものとするのは、そう思っているだけでしょう。
もし、神に倣うということがあるとすれば、身の程知らずにも神に近づこうとすることでなく、低く、ダメなものとも思える、そのありのままの自己の現実に身も心も置く、ということではないでしょうか? そこが神との出会いの場となるかもしれないのです。
そこで、思いを超えて、神の降下と共に自己の現実へとへり下されることがあるばかりなのでしょう。
神の学びとは、上昇しようとすることでなく、降下することなのでしょう。
今のダメな、低い段階は見たくない、認めたくない...だから上へ、上へと思いが馳せてゆくのでしょう。
そうして又..."悪い、低い段階のことはやらないのは勿論、思わない...やってはいけない、思ってはいけない..."
"善なる、調和ある高い段階のことを行い、思い続ける..."
もう、出来もしないことのオンパレードじゃありませんか?
出来ないことは、ただそうやろうと思っているしかありません。
今の現実に意識が向けられることなしに...現状のことにフタをして、その上にどんどん何かを加えて行くように...
"いや、すべてを捨てちゃえばいいんですi"、って...だから、やってみればっつーのi
そして又、どんどん思いは馳せ巡り続ける...
それで本当に神的なものに近づいて行くのでしょうか?
トコトン、トライし続け、上へ上へと思いを巡らし続けてみたら、あるいは気付くことがあるかもしれません。
"すべてはムダな試みだった...ずっとずっと僕はダメなままだった..."
その気付きは全くムダではありませんi その間費やした時間も努力も苦心も(多分)
自分がダメなのか、神に等しいものなのかはともかく、そこに要らん解釈や判断もなく、何も付け加えることのない状態こそが今の現実というものです。
それを受け入れることが、取りも直さず自己を受け入れるということです。だからと云って"自分を受け入れなきゃならないダメ"な訳でもないですよ(笑)
これはまず、そういう意識状態になってみないと分からないことなのかも分かりません。そういう時は一瞬でも思いから離れているものです。
そう思わなくっても、そうなっている...これが"意識が向く"とか言ってることに通じてくるのです。
これは"向けよう"ということとは違うのです。自ずとそうなる、そうならざるを得ないi もう、毎度のことながら、この事を書いている最中にそうなる...何故か?
そうさせる、そうならざるを得ないものが臨んでいるから...そうなると"今の現実に気付く"というよりも、ただ現臨を頂くということがあるだけです。そうです。それで思いを超えて、全託せしめられるのですi
こう思うとつくづく感じてきます。
"我々が神に近づこうと上へと目指すより先に、神は我々に近づきたもう、上昇しようとする先に下降したもうのである"、と。
神的なものがこちらに降って来ることが無ければ、そのものと触れることも、関わることも出来ないのです。
神は自分とは遠いもの、上に向かって険しい道を辿らなければ、至れないものとするのは、そう思っているだけでしょう。
もし、神に倣うということがあるとすれば、身の程知らずにも神に近づこうとすることでなく、低く、ダメなものとも思える、そのありのままの自己の現実に身も心も置く、ということではないでしょうか? そこが神との出会いの場となるかもしれないのです。
そこで、思いを超えて、神の降下と共に自己の現実へとへり下されることがあるばかりなのでしょう。
神の学びとは、上昇しようとすることでなく、降下することなのでしょう。