この相対的な世界では、何が正しくて、間違っているかということは、単純に決めつけることは出来ません。
それでも、強固に「それは間違ってますi」と言わなきゃならないこともあります。
「ジャッジはよくないですよ~」何て言ってられるかってんです。
殺人とか犯罪だったら、当然のことであるのは言うまでもありませんが、その行く先に落とし穴があることが分かっていたら、ハッキリ言ってあげるのが親切というものでしょう。
ある知人が洗脳カルト宗教で有名な「T教会」に近づこうとしていた時は、問答無用に「悪いことは言わない、ヤメとけi」と言い切りました。
私自身、学生時代そこに近づいて宗教に取り巻いている恐ろしさ、愚かさを直に思い知らされたことがあるのです。
でも...事態が進んでしまった後ではどうしようもないこともあります...
その数年前だったか、大阪の街頭で確か社会問題についての何かの集会への勧誘を受けたことがあります。
その相手というのが、もう、アイドルになってもおかしくないようなキレカワちゃんなのでしたi
話の内容何てどうでもよく、そのコと話をしていたのですが、私はすぐそのナンチャラという集会の実態は「T教会」だと分かりました。
狡猾な私はそのことを確かめるべく、このような芝居をしてみました。彼女を泳がしてみようと思い立ったのです。
「僕はね、いつも聖書を読んでいるんです。その黙示録とか読んでいると、どうも今の世界は書かれているとおり、破滅に向かっている気がしてならないんですよね、ええ...」すると、あにはからんや...
彼女の表情が一変したではありませんかi 「そ、そうなんですよi もっともっとそういうこと知りたくないですか...」と彼女。"そーら、間違いないッi"
「いや、こうして話しているだけで勉強になります」とか言いながら、内心はこう言っていたのです。
"うん...もっともっと...僕は君のことが知りたい...そして出来たら...君のことを...何て言うか、その...そう、助けてあげたいi(ええ、下心もありましたともi でも、それもホントの気持ちだったともi)"
彼女がいつも居る場所は、会社からの帰り道なので、その後も数度イロイロな気持ちが交錯する中で会いました。
ある時思いきって「君はT教会の人間なんでしょ?」と切り出しましたが、「な、ナンですか、それ?」とトボける彼女...
そして又思いきって、「いつも立ち話なんで、もっとジックリ君の話を聞いてみたい...」と喫茶店に誘ってみました。
カルトに洗脳されている人というのは、大体が自分の信じている世界のことばかり話したがるもので、人の話は聞こうとしないものです。
しかし、彼女は違っていました。ちゃんとこっちの目を見ながらジックリ話を聞いてくれました。そこから彼女は、まだそんなに深く洗脳されていないように見受けられました。
「人生には、自分の思いを超えて確信に触れる瞬間ってもんがある」と、ここでいつも書いているようなことにも、「分かります、分かります...私にもあった」と言う...一瞬でしたが、その時の彼女の無邪気な表情には忘れられないものがありました。が..."それは何かのセミナー室で会えるのかって、そうは行かないi"
で、2、3時間くらいは話し合ったでしょうか、"そういうのは信者になることでそうなるんでしょ? と問い詰めましたが、中々本当のこと言ってくれません。
そこで私は又卑劣にも、散々T教会、B教祖について知っている限りの批判、中傷をしてみたら、つ、ついに...
「お父さま(教祖のことをこう呼ぶ)はそんな人じゃないi」と、表情がコワ張り、目をつり上げながら彼女は反論してきたのでした。
とても悲しくなりました。そんなマネしなけりゃよかったとも思いました。
私は余計なお節介してるのか?とも思い、私の作為の事情を言ってお詫びをし、なおも「信者になった動機は何ですか?」と、訊いてみたのですが、これがどうも訊いちゃいけないことのようにも思えて「そ、それはあ...」と口を濁らせていましたが、強い罪の意識が横たわっているのはハッキリ伝わってきました。
どっちにしろ、頑なにその教えを信じているので、脱会などの話が通じる訳もありません。
そして、彼女は純粋そうに「早く世界が平和になるといいですね」と言って別れましたが、その後彼女を見かけることもなくなり、やがてその教団の洗脳に纏わることが社会問題になり、街頭布教自体も見かけなくなりました。
私にはどうすることも出来なかったことが歯がゆくて仕方ありませんでした。"あんなに笑うととっても可愛いコなのに..."
自分から所謂洗脳にハマるということは、取り返しのつかない間違いにもなりかねません。
ある契機に"間違っていたi"と気が付いたとしても、拉致監禁されたり、薬を飲まされたりしたらどうもするんでしょうか?
それでも、当人が間違いということが自覚出来なければ、改まることは無いのでしょう。
その意味ではこの世には絶対的に正しいことも、間違っていることも無いのかもわかりません。
ただ、"自分がここに生きている"ということ、そこに幸福を見出だすことに照らせば、魂の自殺行為にも等しい"暗い明け渡し"は...間違っていると言う他ないでしょう。
それでも、強固に「それは間違ってますi」と言わなきゃならないこともあります。
「ジャッジはよくないですよ~」何て言ってられるかってんです。
殺人とか犯罪だったら、当然のことであるのは言うまでもありませんが、その行く先に落とし穴があることが分かっていたら、ハッキリ言ってあげるのが親切というものでしょう。
ある知人が洗脳カルト宗教で有名な「T教会」に近づこうとしていた時は、問答無用に「悪いことは言わない、ヤメとけi」と言い切りました。
私自身、学生時代そこに近づいて宗教に取り巻いている恐ろしさ、愚かさを直に思い知らされたことがあるのです。
でも...事態が進んでしまった後ではどうしようもないこともあります...
その数年前だったか、大阪の街頭で確か社会問題についての何かの集会への勧誘を受けたことがあります。
その相手というのが、もう、アイドルになってもおかしくないようなキレカワちゃんなのでしたi
話の内容何てどうでもよく、そのコと話をしていたのですが、私はすぐそのナンチャラという集会の実態は「T教会」だと分かりました。
狡猾な私はそのことを確かめるべく、このような芝居をしてみました。彼女を泳がしてみようと思い立ったのです。
「僕はね、いつも聖書を読んでいるんです。その黙示録とか読んでいると、どうも今の世界は書かれているとおり、破滅に向かっている気がしてならないんですよね、ええ...」すると、あにはからんや...
彼女の表情が一変したではありませんかi 「そ、そうなんですよi もっともっとそういうこと知りたくないですか...」と彼女。"そーら、間違いないッi"
「いや、こうして話しているだけで勉強になります」とか言いながら、内心はこう言っていたのです。
"うん...もっともっと...僕は君のことが知りたい...そして出来たら...君のことを...何て言うか、その...そう、助けてあげたいi(ええ、下心もありましたともi でも、それもホントの気持ちだったともi)"
彼女がいつも居る場所は、会社からの帰り道なので、その後も数度イロイロな気持ちが交錯する中で会いました。
ある時思いきって「君はT教会の人間なんでしょ?」と切り出しましたが、「な、ナンですか、それ?」とトボける彼女...
そして又思いきって、「いつも立ち話なんで、もっとジックリ君の話を聞いてみたい...」と喫茶店に誘ってみました。
カルトに洗脳されている人というのは、大体が自分の信じている世界のことばかり話したがるもので、人の話は聞こうとしないものです。
しかし、彼女は違っていました。ちゃんとこっちの目を見ながらジックリ話を聞いてくれました。そこから彼女は、まだそんなに深く洗脳されていないように見受けられました。
「人生には、自分の思いを超えて確信に触れる瞬間ってもんがある」と、ここでいつも書いているようなことにも、「分かります、分かります...私にもあった」と言う...一瞬でしたが、その時の彼女の無邪気な表情には忘れられないものがありました。が..."それは何かのセミナー室で会えるのかって、そうは行かないi"
で、2、3時間くらいは話し合ったでしょうか、"そういうのは信者になることでそうなるんでしょ? と問い詰めましたが、中々本当のこと言ってくれません。
そこで私は又卑劣にも、散々T教会、B教祖について知っている限りの批判、中傷をしてみたら、つ、ついに...
「お父さま(教祖のことをこう呼ぶ)はそんな人じゃないi」と、表情がコワ張り、目をつり上げながら彼女は反論してきたのでした。
とても悲しくなりました。そんなマネしなけりゃよかったとも思いました。
私は余計なお節介してるのか?とも思い、私の作為の事情を言ってお詫びをし、なおも「信者になった動機は何ですか?」と、訊いてみたのですが、これがどうも訊いちゃいけないことのようにも思えて「そ、それはあ...」と口を濁らせていましたが、強い罪の意識が横たわっているのはハッキリ伝わってきました。
どっちにしろ、頑なにその教えを信じているので、脱会などの話が通じる訳もありません。
そして、彼女は純粋そうに「早く世界が平和になるといいですね」と言って別れましたが、その後彼女を見かけることもなくなり、やがてその教団の洗脳に纏わることが社会問題になり、街頭布教自体も見かけなくなりました。
私にはどうすることも出来なかったことが歯がゆくて仕方ありませんでした。"あんなに笑うととっても可愛いコなのに..."
自分から所謂洗脳にハマるということは、取り返しのつかない間違いにもなりかねません。
ある契機に"間違っていたi"と気が付いたとしても、拉致監禁されたり、薬を飲まされたりしたらどうもするんでしょうか?
それでも、当人が間違いということが自覚出来なければ、改まることは無いのでしょう。
その意味ではこの世には絶対的に正しいことも、間違っていることも無いのかもわかりません。
ただ、"自分がここに生きている"ということ、そこに幸福を見出だすことに照らせば、魂の自殺行為にも等しい"暗い明け渡し"は...間違っていると言う他ないでしょう。