人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現在、贈り物、意味以前

2018-05-02 12:24:56 | 雑感
ここんとこ、行方をくらましていた人気ブロガーのNさんが、又新たにブログを始められたようです。
そのタイトル名は、英語の「presentー"もらいもの"」というところから来ているらしいですが、それには"現在"という意味もあります。
いやあ、Nさんも言われる通り、本当にこうして在らしめられている、生かされている、ということは天からのもらいものという他ないですねー。
私がクドイほど言っている"現臨"というのは、現在に、そう在らしめるものが臨むものなのです。
どうしたって、こうしたって自分から作り出すことは出来ないんです。
これはアジス.クリストフが言うステート.オブ.プレゼンスと関係が有るのか、どうか分かりませんが(何でもよくない?)、確かに生ける現在にあるって感じになります。
それは修行して開発されるものでなく、そもそもそれ無くして、自分が存在出来ないくらいのものです。
これに無い、ということがどういうことなのかは...本当にそうなってしまったらここに、こうして生きてられない訳で、感じられる身も心も世界も、勿論喜びも苦しみも無く、自己は虚無のうちに消え去るのみという、その片鱗だけは何となく分かります。
私がそのように、現在ここに生きているという感じが分からなくなる事態に陥った時、意識が遠退きそうな状態の中で、そのものの臨在を望んでいたら本当に文字通りそのものが臨んだのです。
人は誰でも苦しみ、悩みから逃れたい、救われたいと望んでいるものです。
それを生き地獄のように感じている人も居るでしょう。
だけど...悩み、苦しみが無ければ喜びも幸福も無い...天国も地獄も無いのです。
自由意志ってもんがあるから、どんな罪なことでも、バチ当たりなことでも出来るし、地獄に赴く自由も、神に反逆する自由もあるのです。
もし、無限地獄というものがあるとしたら、永遠にそうした生の事態に預かることが出来なくなるってことじゃないでしょうか?
("自分は居ない、究極の非二元の境地に到達しました"何て宣っているのは、多分そう思い描いているだけか、そう言いたかっただけでしょう...)
"苦悩と隣り合わせのヌカ喜びの幸福などあったって、どうせ又苦悩に取って代わってしまうだろ..."
って...ホントに、ホントにそう思いますか?、そう感じていますか?
なーんも無くたって、朝目覚めたら幸福になってた...とかありませんか? 綺麗な夕焼けなどに観入っているうちに、そんな風に感じてきませんか?
私はそうなっている時、"これがここに生きていることのベースなのだ"という実感があります。
ジンジン...と。たとえ、現状が不幸そうなことになっていようと、この現在に臨むものにあって、幸福でない訳がありません。
(宝くじが当たったとか、数字の見間違いだったとか、ヌカ喜びってものはあるかもしれないが、ヌカ幸福なんてあるんでしょうか?)
その上で喜んでたり、苦しんでたり、バカなことを懲りずにしている...などの各々の人生模様が繰り広げられているのです。
それ自体に善も悪も、賢も愚も、聖も俗も、意味が有るも無いもありません。
意味が分かったところで、その生の根底にあるものは分かるまいi それは意味付け、頭の納得以前にあるものだからです。
先に私は望んでいたものが、臨んできたと書きましたが、実はそれは私の事始め以前から与えられていたものなのです。英語のスペルの"pre"にその辺りのことが伝わってきます。
いずれにしてもプレゼント...現在、贈り物、すべてに先立つもの..
それが生きている、生かされている証...




コメント
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