私はいつも自己を受け入れること、自己を信頼することの大切さということを言っています。
今日ほどそのことを痛感させる時世は無いと言ってもいいでしょう。
そこに思われた自己というものの崩壊の相が垣間見えてくる...そのまま個体的自己は虚無のうちに消え去ってしまうのか、あるいは新たなる自己の誕生、はた又隠された、本来からの自己の開示があるのか...我々は実にその岐路に立たされている感を覚えずにおれません。
このように自己信頼ということを強調したい一方で、"自分、ジブン...そんなもの何だi 無なんだi 問題じゃないi "と全く真逆ともとれることもチョイチョイ書いたりしてます。
大雑把に言って(紋切り型の説明になりますが)、仏教など東洋系の宗教では、自己を見つめ、掘り下げていくところに道を歩む端緒があるように感じられますが、キリスト教的西欧では"自己を捨てて十字架上の主イエス.キリストを見上げよ"といった教えが浸透しているようです。実際、私は小池先生から「自己に囚われること、我執が罪なのだi」という言葉は何度となく聞いています。
これはどっちが正しいかと言ったら..."どっちも正しい"としか言い様がありません。
ただし、どっちも偏ると間違ったものになってしまうでしょう。
どうしてこういう矛盾した表現が交錯するのかと言うと、取りも直さず我々に真実の自己が明らかにされていない、ということに尽きるでしょう。
といっても、真実の...真我というものはこういうものだ、と明言することも出来ないのですが...
"これが真我だ"とうものが示されようものなら、すぐに思われた自己と結びつけて、"私は神と一つになった"などと短絡的に受け取られてしまったりします。
誰かもこの喩えで言っていましたが、個体的自己というものは、体のごく一部のオデキみたいなものなのでしょう。
チッポケな自分が修行して、信仰して叙々に自己を高め、進歩させていくようなことは、単にオデキを大きくさせるようなことに等しいことなのかもしれません。
体全体の主人にしてみたらウットウしくてしょうがないことでしょう。
しかし、オデキのようなものでも、"チクビ"みたいに赤ちゃんにもダンナ?にも無くてはならないものなのかもしれません。
ここで肝心なことは、それは体全体とつながっているものだということです。しかし、実際の有り様は分かりませんが、個体的自己というものはもっと独立性があるように感じられます。
要するに自己の消息には、個的にして全体的なものが分かち難く調和されているものが想起されてくるのです。
それはこのありのままの自己に照らせば、元々内在しているものとも感ぜられるし、その限界を超えた超越したものとも映ります。
そのことはしかし、部分的自己が、全一的自己への目覚めに転じられることを通して明らかにされることです。
自己の内面に深く入ることにせよ、自分を超えた超越的存在にゆだねるにせよ、自分自身の問題であるには違いありません。何にしても自分自身を受け入れることからしか始まってこないでしょう。
仏教などでは、自己を追求していけば無我へと導かれると、ノンデュアリティでは、個体的自己は元々無いと説かれたり、一方で自己をキリスト.イエスのような超越的存在にゆだねてゆく道があったりして、自己が有るのか無いのか、判然としないということも本源的な全一的自己が明らかにされていなかった、ということに尽きるでしょう。
私には今、その御方自らがお出ましになろうとしているのをヒシヒシと感じています。
ここから明らかになる自己の消息は、東洋も西欧も一元も二元もなく、自分は自分でありつつ"我ならぬ我"に預かるようなことでしょうか...
他の人にはどうかは知りません。それは各々の自己にゆだねられていることだから...
今日ほどそのことを痛感させる時世は無いと言ってもいいでしょう。
そこに思われた自己というものの崩壊の相が垣間見えてくる...そのまま個体的自己は虚無のうちに消え去ってしまうのか、あるいは新たなる自己の誕生、はた又隠された、本来からの自己の開示があるのか...我々は実にその岐路に立たされている感を覚えずにおれません。
このように自己信頼ということを強調したい一方で、"自分、ジブン...そんなもの何だi 無なんだi 問題じゃないi "と全く真逆ともとれることもチョイチョイ書いたりしてます。
大雑把に言って(紋切り型の説明になりますが)、仏教など東洋系の宗教では、自己を見つめ、掘り下げていくところに道を歩む端緒があるように感じられますが、キリスト教的西欧では"自己を捨てて十字架上の主イエス.キリストを見上げよ"といった教えが浸透しているようです。実際、私は小池先生から「自己に囚われること、我執が罪なのだi」という言葉は何度となく聞いています。
これはどっちが正しいかと言ったら..."どっちも正しい"としか言い様がありません。
ただし、どっちも偏ると間違ったものになってしまうでしょう。
どうしてこういう矛盾した表現が交錯するのかと言うと、取りも直さず我々に真実の自己が明らかにされていない、ということに尽きるでしょう。
といっても、真実の...真我というものはこういうものだ、と明言することも出来ないのですが...
"これが真我だ"とうものが示されようものなら、すぐに思われた自己と結びつけて、"私は神と一つになった"などと短絡的に受け取られてしまったりします。
誰かもこの喩えで言っていましたが、個体的自己というものは、体のごく一部のオデキみたいなものなのでしょう。
チッポケな自分が修行して、信仰して叙々に自己を高め、進歩させていくようなことは、単にオデキを大きくさせるようなことに等しいことなのかもしれません。
体全体の主人にしてみたらウットウしくてしょうがないことでしょう。
しかし、オデキのようなものでも、"チクビ"みたいに赤ちゃんにもダンナ?にも無くてはならないものなのかもしれません。
ここで肝心なことは、それは体全体とつながっているものだということです。しかし、実際の有り様は分かりませんが、個体的自己というものはもっと独立性があるように感じられます。
要するに自己の消息には、個的にして全体的なものが分かち難く調和されているものが想起されてくるのです。
それはこのありのままの自己に照らせば、元々内在しているものとも感ぜられるし、その限界を超えた超越したものとも映ります。
そのことはしかし、部分的自己が、全一的自己への目覚めに転じられることを通して明らかにされることです。
自己の内面に深く入ることにせよ、自分を超えた超越的存在にゆだねるにせよ、自分自身の問題であるには違いありません。何にしても自分自身を受け入れることからしか始まってこないでしょう。
仏教などでは、自己を追求していけば無我へと導かれると、ノンデュアリティでは、個体的自己は元々無いと説かれたり、一方で自己をキリスト.イエスのような超越的存在にゆだねてゆく道があったりして、自己が有るのか無いのか、判然としないということも本源的な全一的自己が明らかにされていなかった、ということに尽きるでしょう。
私には今、その御方自らがお出ましになろうとしているのをヒシヒシと感じています。
ここから明らかになる自己の消息は、東洋も西欧も一元も二元もなく、自分は自分でありつつ"我ならぬ我"に預かるようなことでしょうか...
他の人にはどうかは知りません。それは各々の自己にゆだねられていることだから...