とかく信仰的な人というのは、自分の周りの見ている世界が、一向に調和に向かって改善されて行かず、自分自身にも幸福と感じることが起きてこず、それどころか益々悪くなって行く様に思いが馳せて行き、神も仏も無い、という感を抱いてしまうようです。
そして、それが元で神信仰から離れてしまう人も居るようです。
神仏は、この世界の平和に関与していると思われているのです。
自分自身の平和、幸福についてはどうでしょう...これは幸福というものをどう捉えるかにもよります。
富、健康、愛情 ...これら目に見えるような幸福とみるのでしょうか?
それらに恵まれれば本当に幸福に、平和(平安)に感じられるでしょうか?
こういうことは、如何に浮世離れしてる(?)ような私とて当たり前のように、日常で感じていることなのは言うまでもありません。
お金について言えば、毎月、月初めは幸福で、月末になると不幸に感じてくるのは何故か?
その工面が上手く行けば、たちどころに幸福の絶頂に達したようになってしまう...いや、もう本当に"ゲンキン"な話です。
(そうですよi 私がいつも書いているのは、所謂リア充とは程遠いことなんですよ)
しかしですね...そういう束の間の幸福を手に入れたとして、どうしても、どうしても心から幸福に浸ってる感じはしてこないのです。
それは...元々がそういうグラついたものの上にあるからということなのですが...別の理由で世界は実にかくの如き様を表しているからです。
やはり神も仏も無いのか?
宗教には、お陰話とか奇跡談というものが付き物ですが、私にもそう思えることもあるし、そういうこともあるのでしょう。
ただ、あまりに神を見える現実世界と結びつけてしまうと、"見えなくなってしまう"ことになりかねません。
私は見た訳じゃないので、神仏が(存在するとして)どれだけこの現実世界に関与しているかは分からないのです。
"神は個人も人類も守り給う"、ということを勿論否定する訳ではありませんが、これはもっと我々の見えない、根底的なところにこそ言い得るのではないでしょうか?
私は先月末、忘れた頃にやって来る、あの危機的金欠の事態に見舞われ、一時見失いそうになりましたが、心の奥に息づいているものは、やはり失うことは無いのです。これは月初も月末も同じなのです。何がどうなっていようと...
これは神が守り給うから?...いや、神が居て、どうこうするというよりも、"神的なものと共にあること"でそうなるのです。
神的なものと意識にあって、二元的に切り離されていないのです。これはそう思えるとか、思えないという次元のことではありません。
私が思うが思うまいが、そうなっているのです。
神は個人、人類の平和の実現に関与している(これにはある面で、以下のような別様の言い方で強く頷けるものがあります)...この世界の支配者、あるいはこの宇宙の法則そのもの...
これらのことは、多く理念を通して、概念として知らされることであり、私は直接そういうことは知りようがないのです。
私に直接示されているのは、それと意識がつながることで、"愛、平安、リアリティ"に与れるということです。
このことに基づいて、自分について、周りの世界について改めて見ると...それは思われたようには映らなくなる...
まず、抽象的に理解されがちな平和というものは、この"平安"無くしてあり得ないということです。
ということは、この平安は、この混迷に満ちた世界を向こうに見ている、私個人だけが与るものじゃない、ということです。
そして、いやというほど見せられていることは、この平安と切り離された世界の様というものです。
ご存知のように、我々の世界は、日増しに悪くなる、滅び去る一方のように見せられている...だから世的な幸福を得ても、心からそう感じてきません。しかし、その奥では言い表せない、否定出来ない幸福というものはある...
否定出来ない...益々混迷が深まればなるほど、我々が悪夢から覚める日が近いことを感じさせられています...。
そして、それが元で神信仰から離れてしまう人も居るようです。
神仏は、この世界の平和に関与していると思われているのです。
自分自身の平和、幸福についてはどうでしょう...これは幸福というものをどう捉えるかにもよります。
富、健康、愛情 ...これら目に見えるような幸福とみるのでしょうか?
それらに恵まれれば本当に幸福に、平和(平安)に感じられるでしょうか?
こういうことは、如何に浮世離れしてる(?)ような私とて当たり前のように、日常で感じていることなのは言うまでもありません。
お金について言えば、毎月、月初めは幸福で、月末になると不幸に感じてくるのは何故か?
その工面が上手く行けば、たちどころに幸福の絶頂に達したようになってしまう...いや、もう本当に"ゲンキン"な話です。
(そうですよi 私がいつも書いているのは、所謂リア充とは程遠いことなんですよ)
しかしですね...そういう束の間の幸福を手に入れたとして、どうしても、どうしても心から幸福に浸ってる感じはしてこないのです。
それは...元々がそういうグラついたものの上にあるからということなのですが...別の理由で世界は実にかくの如き様を表しているからです。
やはり神も仏も無いのか?
宗教には、お陰話とか奇跡談というものが付き物ですが、私にもそう思えることもあるし、そういうこともあるのでしょう。
ただ、あまりに神を見える現実世界と結びつけてしまうと、"見えなくなってしまう"ことになりかねません。
私は見た訳じゃないので、神仏が(存在するとして)どれだけこの現実世界に関与しているかは分からないのです。
"神は個人も人類も守り給う"、ということを勿論否定する訳ではありませんが、これはもっと我々の見えない、根底的なところにこそ言い得るのではないでしょうか?
私は先月末、忘れた頃にやって来る、あの危機的金欠の事態に見舞われ、一時見失いそうになりましたが、心の奥に息づいているものは、やはり失うことは無いのです。これは月初も月末も同じなのです。何がどうなっていようと...
これは神が守り給うから?...いや、神が居て、どうこうするというよりも、"神的なものと共にあること"でそうなるのです。
神的なものと意識にあって、二元的に切り離されていないのです。これはそう思えるとか、思えないという次元のことではありません。
私が思うが思うまいが、そうなっているのです。
神は個人、人類の平和の実現に関与している(これにはある面で、以下のような別様の言い方で強く頷けるものがあります)...この世界の支配者、あるいはこの宇宙の法則そのもの...
これらのことは、多く理念を通して、概念として知らされることであり、私は直接そういうことは知りようがないのです。
私に直接示されているのは、それと意識がつながることで、"愛、平安、リアリティ"に与れるということです。
このことに基づいて、自分について、周りの世界について改めて見ると...それは思われたようには映らなくなる...
まず、抽象的に理解されがちな平和というものは、この"平安"無くしてあり得ないということです。
ということは、この平安は、この混迷に満ちた世界を向こうに見ている、私個人だけが与るものじゃない、ということです。
そして、いやというほど見せられていることは、この平安と切り離された世界の様というものです。
ご存知のように、我々の世界は、日増しに悪くなる、滅び去る一方のように見せられている...だから世的な幸福を得ても、心からそう感じてきません。しかし、その奥では言い表せない、否定出来ない幸福というものはある...
否定出来ない...益々混迷が深まればなるほど、我々が悪夢から覚める日が近いことを感じさせられています...。