人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

世界のことは神が面倒みるだろう

2019-07-05 11:52:01 | スピリチュアル
自己の生、人生と世界人類との関係は如何に...
まず、言わねばならないことは、世界といい、人類といっても、それらはマスメディアなどの情報を通して知られるものであり、私は直接的に、具体的なそういうものを知り得ない、抽象概念みたいなものだということです。
如何に世界がますます、滅亡に向かって混迷を強めて行くように映っていても、それはまさにそう私の脳裏に映っているまでなのです。
だから..."世界が、人類がどうなろうと、俺の知ったこっちゃないi"...でも、よさそうなのですが、心底そうならないのは何故か?
如何に私が幸福に与っていても、心底そう感じられない...
覚醒体験などで、私はこの世界を超越したように感じても、どうしても、どうしてもそこから自由に、離れたような気がしない...何故でしょう?
私は、まさにそれに与った時に、示されていたのです。
私は、私という個だけで生きているのではなく、普遍なるものとのつながりにおいて生き、生かされているということを...
この普遍なるものは、その関係性はあっても直ちに世界人類を意味するものではありません。
それは、我々が世界とか人類と認識されているものの淵源、原型的なものに違いないでしょうが、抽象概念のように思念に映し出されるものではなく、私と切り離されない、具体的なつながりとしてあったのです。
私自身のことは、直ちにこの普遍なるものにあり、あちらにあるものは、こちらにもある...相即しているのです。
これに則せば、世界人類に起こっているように、映し出されているものは、多く思念を通してのものだということが理解されます。
ラマナ.マハルシは、「どのようにして世界の苦しみを変えることが出来ますか?」との質問に対し、「真我を実現しなさい、それが必要なすべてのことです」とキッパリ答えています。
私はこれを読んで、多くの常識的な人がそう感ずるであろうように、一種の精神的利己主義のように感じたこともあったのですが、おそらくラマナのこの言葉には先のようなことを含ませていたのではないでしょうか?
これは、私が真我を実現することで、世界を救済するという、思い上がった妄想の事態ではありません。...私自身の実現は、普遍なるものの実現とつながっているということを意味しているのではないでしょうか?
これは五井先生が述べていた「個人人類同時成道」ということにもつながるでしょう。
ラマナは又"世界人類の救済"、といったことに躍起になっていそうな質問者を揶揄するように、「世界のことは神が面倒みることだろう」と語っています。
これと関連して、私はかつて"人々は神と切り離されて生きている(私には深刻にこの事自体が滅亡の相に映ったのです)、このまま世界人類は滅び去るしかないではないですかi"と、"見えざる導師"に心奥で訴えたのですが、その声なき声(言葉を介しない意識に直接響く音信の如きもの)は、"案ずるんじゃない、世界のことは、私が救うから..."
とは、告げませんでした。神にしたらそんなこと、知ったこっちゃないのでしょうか?
ただ、私に強くその時、響いてきたのは、"私は表に顕れるi お前の周りのただ中に..."というものなのでした。
これは神が世界人類を救うというのは、文字どおりのものでなく、我々が救われるということは、我々の表に(表層意識)神的なものが、顕れる、よみがえってくるということではないでしょうか?
今の私には、世界人類が滅亡の相に映ってくれば、くるほど、そのどんでん返しの日が...こちらにあったものがあちらに、あちらにあったものがこちらになる日が近いのを覚えさせられています。
コメント
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