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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自然に感じること

2019-07-24 11:53:50 | 求道、探究
読者には、私が書いていることは、"掴みどころがなくて分からんi"という方も多かろうと思います。
特定の教えとかメソッドとかについては何も提示されません。
"んー"...どうしても、そういうことは書く気にはならないのですね。
ということは、私はそういうことに意識が向かわないということです。多分、そういうことに囚われたくないからでしょう。
そんなことより、私は神的なものに意識が向いちゃうんです。
"神とか何とかって、そんな抽象的なものは捉えどころないじゃないかi"と言うなかれ...
私には具体的なことなんです。(といって、神がどういうものかは分かりませんが)、それに"捉えられたこと"があるからです。
全身心に感じられたことなので、こんな具体的なことは無いのです。
そんなことになって、何かの教えとかメソッドとかに、ことさら依拠する必要などあるでしょうか?(だからと言って、私はそういうものを否定するつもりはありません。縁とか機根というのはそれぞれですから...まあ、そういうものを求めている向きには、ネットを探せば他にゴマンとあることでしょう)
私がいつも"意識を向ける"とか言っているのは、こういうことなのです。自然(じねん)に向かうということ。
何か気張って"意識を向けよう、向けよう"とすることでは全然ありません。
で、こんな感じで愛する神的なもの(何でもいいのですが)に意識が向いたら、何だか楽しく、喜ばしい感じになってきた...
このことは、私には求道の初期の頃からずっと感じられてきたことなのですが、長いこと自覚はされていませんでした。
ここで、"ふと"そうなったことに意識的になってみる...すると自覚される...何だか分からないが、見えないメカニズムみたいなのがハタラクことが分かってきます。
自然に感じられることは、当たり前過ぎて気が付かないものなんです。
何か喜ばしいものを感じたら、やっぱりそういう方に心が自然に赴くものです。
そうしてどんどんその喜びの世界が広くなり、深められて行くのです。そういう縁が勝手に開かれたりもします。
私が"見えない導き"と言っているものはこういうものです。
別に神様が"ああしろ、こうしろ"と指図する訳じゃありませんよ。
"ああしてはイカンi"というのも無い訳ですが、私にとって"イカンもの"には意識が向かわないのです。自然に。
そこに喜ばしいことや、平安というものが感じられないからです。カルト宗教とか本当に"アカンもの"だと悪寒がするとかあって、"こりゃあ、何かの守護かなあ"と感じることもあります。
ここで書いているのは、"じねんに"、喜ばしいことが感じられる、というのがミソなのです。
道を歩む上では、"自然"にでないものに赴くことが多々あるものです。
純粋な喜びでなく、欲得や見栄とかが絡んでいたり、よく吟味してる訳でも無いのに、知人に奨められて従っただけとか、あるいは、"神は自分の罪を裁く恐ろしいものだ"という、自分が直接感じた訳でも無いのに、人が言っていることに囚われるとか...
喜ばしいことというのは、ハートから来るということは、それまでやはり自覚されてませんでしたが、ブログを書いていて自然に感じられたことです。
別に特定の教えやメソッドなど、トラワレの元になるような何ものかに従うのでもなし、こんな簡単なことは無いと思うんですがねえ...世の中トラワレで一杯なんでしょうか?
コメント
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