人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えざる第三者

2019-07-10 11:52:25 | 哲学・思想
日常の人と人との対話においては、私が居て、あなたが居て、私の観方、感じ方があり、言い分というものがあり、あなたにも同様のものがあり、両者は異なった有り様を示すのは当たり前のことです。
そして、そこで交わされる言葉の中に歩み寄れる一致点を見つけ、"お互い理解し合えるようになったかな?"と思ったり、そうでなければ、ずっと平行線を辿ることになることもある訳です。
又時には、お互い我性を持たされている身のこととて、我意を通そうとするあまり、相手を説き伏せたり、言葉で丸め込んだり、相手に対して支配、服従の関係を築こうという目論みも生まれたりします。
このように、私が居て、対者が居るという関係性においては、双方の分離という事態は避けられないものですね。
こういうことに纏わることは、我々日常的にイヤというほど味合わされているとおりではありませんか?
しかし...ここに第三者が介入した時、全く別様の展開がもたらされます。ホントは"第三者"という言い方は適切ではないのですが...
二人の関係性がこじれた場合、時にフェアーなはずの"三人目の人間"の存在ほど茶番、インチキを演じるものはありません。
"あに、第三者委員会だとお...フェアーな事前工作抜かりはあるまいな..."
この第三者は、生身の人間とは限らないのです。"見えざる第三者"だったりするのです。
しかし、彼がこの関係に介入する時、そこで真向かいにも接見して受ける、こちらの感じは、全く第三者的なんかではなく、この世のどんなものにも増して私に近いというものです。
いや、そこの関係性においては、"見える"相手も、自己と相対している他人のようには感じられません。
これは相対的な関係に、一体感をもたらせるものなのです。
それは、大体が単独の場で行われるジンジンと、思いを超えた現臨にあることが、その関係の中で行われている、と言ってもいいでしょう。
そして、私がそれに与っている時には(必ずしも自覚意識を持っているとは限りませんが)、相手も何かしらそれに与っているハズです。
この一体的関係においては、一方通行というものはあり得ないだろうから...
ここには主従の関係というものも、一致点を見つけて手打ち?、妥協しあうということもありません。
現臨にあるように、私のうちに意識の中心が生まれるが、それは"我々"の意識の中心となり得るのです。
ユダヤ系の哲学者マルティン.ブーバーが強調したように、ある意味では、"神(的なもの)は、人と人との間に現れる"と言えるでしょう。
しかし、人間の営みは常時、"見える関係性"の中で行われているとは限りません。
逆に言えば、単独であろうと、どんな様態にあろうと、人間は関係性の中で生きているとも言えるでしょう。
私が単独で現臨に与っている時、実感されることは、まさに見えざる神的なもの、普遍なるものとの一体感といったものなのだから...
私という個が生きているということは、1コの個のままでは、在り得ないのです。
一個の存在は、世界人類と切り離せないものを内包しているのでしょう。
ただ、この内的有り様が、客観的現実に応現する時、人と人との間(人とは限らないが)の、見える関係性に、より顕著に現れるとは言い得るでしょう。
たとえ、それが最小単位の、あなたと私の二人の関係性であろうと、その場は神の国が実現したように感じるように...
コメント
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