人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

覚醒、悟りと神

2019-07-11 11:47:44 | 
スピ関係のネットを見ていると、どうも最近は、所謂覚醒とか一瞥体験というものと、悟りというものとは違うという観方が定着しつつあるようです。
しかし、中には覚醒と一瞥も違うという観方もあるようで...ああ、もうメンドくせi
こういうことを言いきるというのは、きっと悟った人なんでしょうから、そうなってない私などがトヤカク言える筋などありませんが、かように、観方、感じ方というのは、人によって異なるのは当たり前のことだし、定見みたいなものが出てくること自体オカシイことのように思えます。
そして、ここには覚醒や一瞥体験は、今だしのもの(中にはそれらは幻想に過ぎないと言う人も居る)で、ホンモノ?の悟りとは違う、ということを言いたい心根が見え隠れしているようです。
そしてその上で、覚醒体験は、その真正の悟りには必要、という観方と必要でないというものとで見解も分かれるようなのです。
そんなこた、一人一人の気根に聞いてみにゃ分からないようなことなのに、何で"オレがもの申す"みたいに出てくるのでしょうか?
とにかく、ここ最近、覚醒、悟りの批評家気取りがやたら出てきたようです。
私にはこういう談義というものが、さも"自分が自分の意志で目指して、自分でその道に勤しみ、自分で望んだ通りにたどり着けるもの"、という風に語られているのが不思議でしょうがありません。
真正の悟りらしき境地に、自分で目指してなれるとでも言うのでしょうか?
私自身について言えば、覚醒の前兆のような、その初発的なこと、その爆発的著しい発出的なこと、その静かに根を下ろしたようにも、心身に浸透化してゆくこと...おおよそ、この三通りの在り方があったと言えるのですが、そのことごとくが天与のもの、神的なものに導かれた、その一環だった、という風にしか感じられてきません。
与ったものに対して、今だし、中途半端なもの、幻想だとか自分の限界ある判断だけで決めつけられるでしょうか?
それを自分で否定的に封じ込めようとしたら、思わぬ苦難を背負いこまなければならなくなることも知らされています。
こうしたことは、"自分は悟ったi"という先と別の意味での決めつけ、その境地への固執を避けるという意味合いでは頷けるものがありますが、それはどこまでも、そもそものその元なるもの、"神意"にゆだねられるべきではないでしょうか?
神意無くして、覚醒にも悟りにも導かれ得ない...ここから離れることから、体験や境地そのものを追い求めることに意識が向い、そこに固執する心的傾向が強まってしまうのではありませんか?
自分で言うのもオカシイですが、先の三通りの有り様というのは、ごく自然な歩まされ方をしていたように自覚されています(勿論、それは諸人に当てはまるものではありません)が、勿論有り様こそ違うものだけど、同じ天来の、神的なもののうちにある、という面では分けられるものではないのです。
そして、その各々の節点にあっては、"あれは最善のものだったi"という感慨を覚えています。神的なものに出会うというのは、そういうものなのでしょう。
で、この先のことは、天の思し召しということで、どうなるかなど分からないのです。(3パターンのことは思い返したらそうなっていたことを述べたまでです)
それがどういう有り様を示されようと、ただ神的なものに意識を向け、そのものと共にあらんことがあるだけでしょう...。
コメント
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