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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

一の如し

2019-07-14 11:36:54 | 現臨、ハタラキ
今日書くことは、例によって?読まれる方には、チンプンカンプンなことかもしれませんが、私の内面では、じっつにリアルな、ありやかなものとしてあることなのです。
私はしばしば"神(的なもの)と共にある"ことを強調しておりますが、こういう言葉はともすると、自分があって、神(的なもの)がある、という、二元的な在り方のイメージを与えてしまうように感じてはおります。
それだけで何か問題になる訳ではないと思うのですが、私が理解しているこの二元的在り方の問題とは、例えば自分自身と、信仰とか修行、社会活動等々のことが分離してしまい、それら自体が一人歩きしてしまうような事態のことです。
こうした精神の有り様では、人間の内面生活の根底となるべき神との関わりからしてそのようになってしまい、当然の如く神と信仰、修行なども分離してしまい、信仰のための信仰、修行のための修行に明け暮れてしまい勝ちになるのです。
そうなると、神は自分軸とならず、自分の向こうに観ているようで、やたらと抽象的な宗教やスピ関係の教えに依存しているかと思ったら、一転して、"神は人間を救ってくれるはずなのに、一向に人類は救われないではないか?"といった疑念からか、神の否定、無神論に傾いてしまったりするのです。
その一方では、一元的な、"私は神、一者と一つである"式の教えもあります。
もし、これがそうした観念からでなく、現実に自分がそうなってしまったのなら、もう何をか況んや、オシマイでしょう。
"自分は無い、すべて無い"...すべてそれで完結します。後は何も無しi
"ノンデュアリティの生き方というのは..."って、何でそんなユーレイ人間が物を言うのかi
そういう教えをいくら信じたってそうなりません。逆に言えば、そうならなければ信じようとするでしょう。
"自分は居ない、神も居ない"...すべてそれで完結した...ことにする訳です。
これは実は、"二元的な非二元的教え"の観念を介在させていることに他ならず、この点では二元的な教えと形は違えど同じと言わねばならないでしょう。
"神と共にある"というのは、現臨と言うも、聖霊と言うも、そういう具体的なハタラキ的なものが伴っているということで、それを信従する必要はないのです。
ただ、これを言い表すことが、実に微妙なこととて、私の足りない頭では難しいのです。
これは、"自分があって、神的なものがある"、という、二元的、分離的なことを言っている訳ではありません。
かと言って"自分と神は一つである"と、そのある側面では言い得ても、"私は神である"などとは、どうしても言えないものがあります。
それでは、"ここに私と神的なものとをつなげているものがある"、ということが浮いてしまう感じがしてしまうのです。
"現臨、ハタラキがある"と言ってもいいくらいなのですが...これをズバッと言い表す言葉というのは、今まで我々の世界ではほとんど無かったようです。
ともかくも、私のことも、神的なことも、"このものにあって"アリアリと感じられるのです。
それは一元でも二元でもなく、主観でも客観でもない...
仏教的に、"一の如し"、"神と私は一如(みたいなもの)"、と言い表すしかないかもしれません。(この"如"というのは実に仏陀、仏教的表現だと思います)
それは真実か?..."真の如し"、真如。
あなた自身が知ろうとするのでなく、感じてもらうしかありません。


コメント
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