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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

考えている自分はいない

2019-07-28 11:52:07 | 哲学・思想
もし、こうして考えている自分というものが無ければ(それは"思考することが出来ない"ということですが)、苦しみも悩みも何の問題も無くなる...と、フツーに"考えられ"ますね。
死ということも、その恐怖というものも無くなるのです。
そして、その対局にあると"考えられている"、喜びや幸福というものも無くなる...と考えられるようです。
だけど、そういうものに与っている時のことを思い描いてみてください。あれこれと考えているでしょうか?
"我々が幸福に感じるのは、ある媒体がその幸福を感じるツボを刺激して云々...そういう二足歩行生物の法則があるのです"
...って..."頼むから、そういうメンドクサイの黙っていて、引っ込んでいて欲しい..."と感じないでしょうか?
ここまでのことは、難しそうな意識の深み、内奥のことを言っている訳じゃありません。
そうです、考えているあなたなど及びでないのですi
思考せずとも、それは感じられる...これを感じる感性というのは、根本的なもので、我々の本性に根差しているとも言えるでしょう。
この原初的感性というものは、表層の感情とか気分といったものとは違います。
このことは、何かの契機で思考機能を失ってしまった時、ハッキリと示されることなのです。
そこでは通常思われている、幸福感を喚起する媒体、イメージというものは無くとも、元々あるような幸福、平安を感じられるのです。
思われている、個体性(考えている自分)は無くなるかもしれませんが、感じている自分は在るのです。
"ただ在る"...言葉ではそう表すことしか出来ないですが、そこにはどんな言葉を費やしても、言い足り得ないものがそこに凝縮されている感じです。
これを思考を辿って表現しようとすれば、するほどその"現存"からは切り離されてしまうだけでしょう。
これはとりもなおさず、考えている自分は、その現存と一枚に、一如になっていない、ということでしょう。
宗教やスピではどうして、神や真理と一つになることを叫ばれ続けて来たのでしょうか?
それは、そのものと一つになることこそが幸福なことだからではないでしょうか?
どんな真理が説かれようが、どんな法則が立てられようが、それを向こうにおいて、又自己を外において観ている限り、そのものも自己も現存していないのです。
私が現存とか現臨と呼んでいるものは、愛、平安、リアリティそのものであり、自己と切り離されていないものなのです。
もし、宇宙の創造者のような存在が居て、我々は彼等の食用にされることが動かない真理であるのなら、私は喜んで彼等の餌になるまででしょう。
しかし...私は彼等の子であろうとはしないでしょうが..."永遠のなんじ"の子でありたい。
理屈を超えて、自ずから惹き付けられてしまうとは、そういうことなのです。

と、まあ私が勝手にこうして連々と書いているようなことも、"それはあなたの如何にも思考を超えたような装いをして、あなたの日頃の心的性向が反映された、一つの見解にすぎないのでしょう?"と、感じている向きもおられるかもしれません。ごもっともなことです。
いつも言うように、あなたの真実はあなたが直接知るしかありません。"どっかの誰かがこう言っている"とかイイカゲンなところで手打ちになどしないで...
こう、意識されるだけで、何だか楽しくなってきやしませんか?...
コメント
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