goo blog サービス終了のお知らせ 

人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

秘密の祈り

2019-07-15 11:10:40 | 祈りと瞑想
私はこのブログで随分と、私の隠されていた秘密を表に顕わにしてきました。
しかし...まだまだ隠されていることはタンマリあるのです。(笑)
私はこういう風に、"出してみよかな、出るかな...いや、出なんだ"...と、謎の覆面レスラーになった気分で、楽しくていつも書いてたりしているのです。
でもねえ...これはどうかなあ?...こんなん書いたらオカシク思われないかな...と、一寸躊躇しつつも、休日だし"お筆先"のように書いちゃってます。

私は実は、毎朝習慣的なものですけど「世界平和の祈り」に則った祈りをしています。別におかしかないですね。
"神様有り難うございます"と、まあフツーなことです。
しかし、そこに昔、知り合いだった人懐こい野良ネコの名前やら、意中だった異性の名前が出てきたりするのです。
これはその習慣的でない祈りの時にも出てきたりするのです。オカシイかな?
誤解しないでほしいのですが、別にそのネコや異性を神様に仕立ててる訳ではありません。
これが秘密めいたことのようですが、それらが祈りの対象になっている、というよりも、こう赴くというのは、その交流があった時に感じられた、"愛にある"ことに意識が向けられる、というところにあります。具体的に感じられたことなので、想起しやすいのです。
その愛というのは、神的な愛というものとは違い、多分に人間的な愛情と言われるものと結び付くものですが、でもその"愛そのものにある"というところで、根底にあるものは同じだと思うのです。
普通、そのような具象を伴った存在に対しては、その対象にばかり意識が向けられるものですが、"愛にある"状態というのは、それだけからはけっして生まれません。
それを感じている私の中からも現れているのです。それは原初的に私に備わっているもので、その具体的な存在が媒体となって、発現されると言ってもいいでしょう。
このことは、形なき命、神的なものについてもより一層言えることで、そうした関係が思われた愛情というものを超えて、神的愛と一つにもなり得るのです。愛は分けることが出来ないのです。
それはいつもここにある。
思われたそうした関係に、こういうものが根付くことで、それは変わったものになる...かもしれません。

人は言う..."神は愛である"と...けれど、それは人がそう言っているだけで、神にホントは愛など無いのかもしれません。
人は得てして、自分が思っていることを神に投影するものですしね。
神は又、人間を守ったり、救ったりしないのかもしれません。
でも、私はこうした言葉をひっくり返して言うことも出来ます。
どうしようもなく、涙があふれるほどの愛というものを、世の中の一体どこに感じられるだろうか?
これといった、運命を改善されるような、どういう因果か、そういう出来事が起こらなくとも、形なき、惹かれてやまないものに意識が向いただけで、どうしようもない苦境から救われた、苦しみから逃れることが出来た...どうしてそうなるのだろうか?
私はこう言い表すことしか出来ません。

"神的なものにあることが、愛にあることである。それが救いである"...と。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする