人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

廃墟のブッダたち

2019-07-27 12:00:04 | 人生の裏側の図書室
最近、伝説のスピ教師EOこと、故鈴木崩残氏の著書が復刊されているので読んでみました。
「廃墟のブッダたちー銀河の果ての原始経典ー」(まんだらけ出版)
(何かその周辺で、EO氏の"遺物のオークション"とか、訳の分からんことが取り沙汰されているみたいですが、このことと絡めているのかしら? 夏本番になることだし、頭がオカシクなりそうなことは、漫画の世界だけにしてもらいたいですi)
私は、95年夏、確かオウムのA教祖が逮捕されて間もなく、この本の続編だったか、読んだことがあったのですが、途中でやめてしまった記憶があります。
一連のオウムの報道により、何か世の中全体が、灰色の空虚な空気に包まれていたことなどが相俟ってか、暗ーい気分にさせられたことなどもありましたが、今度読んでみて思い出したのは、一寸著者の決めつけたような表現が所々で鼻についたということだったようです。
著者は、92年に大悟に与ったと言います。
全く思いがけず「それが起きてしまった」のです。
「そして、誰が死ぬ苦しみと生きる苦しみを生み出しているのか。
それは、私の観念だった。思考だった。
...
その時、どんな思考もないままで...
全く苦しんでいない何かがそこにいた。
それが、
"これ"(巻頭にある注によれば、"私たちの個体性を超えた、本性そのものを表現するもの"とのこと)だった。」
これには実に魂が揺さぶられそうになります。思考を超えた意識次元の消息がアリアリと伝わってきます。
そこに考えている自己はいない...当然のことながら「ただ在る」、「残るものは意識と"ただの存在性"だけだった」のです。
しかし..."ただ在る"だけというのは、本当にそれだけで片付けられてしまうことなのでしょうか?...と、このように私が感想を持つのは、思考のフィルターを通して言っているのですよi
そして、著者はここから唐突に「我々人類は、我々より高次の創造者(神?)たちの食用にすぎないのである」と、例の虚無的世界観へと読者を誘導して行くのです。
何でも我々が苦しむほど彼等の格好の餌になるらしいです。我々のすべての苦難の意味はそのためなのか?
著者がそうした情報を得たという、エイリアン?の棲息領域に踏み入れたという描写自体がそうなのですが、これは、著者が「ただ在る」という状態から、"思い描くことが出来る"地点、そうしている自分が居て、エイリアンの存在が認識出来て、上記したようなことが、「地球の二足生物の基本的性質の法則である」と認識出来る地点に、"着地して"そう述べているのです。
(私は"彼ら"と、自分を外において言い表せる宇宙の創造者のことなど知らないし、知りたくもありません。そういう食物連鎖みたいなことは、自然界のある面のことしか知りませんi)
ここには、多分に著者の日常の心的性向が反映されていると考えていいでしょう。
あなたも私も「ただ在る」としか言い様の無い世界に導かれるかもしれません。しかし、そこからこの現世に着地した時、そこから何を感じる、何を思うかはあなた次第なのです。
おそらくEO氏も、自説に容易く迎合したがる群れ、信者を作ることなど望んで無かったハズです。
しかし、上記のことに言及せずにおれない、パッションもあったのでしょう。
お気楽なスピ界に風穴を開けるという意図もあったのかもしれません。
しかし、この著は、上記のような、すぐハマりたがる者には、あまりに毒性が強いです。
ここで紹介されている、"死人禅"と称する瞑想法(私は、こういう意念を用いた方法は全く受付けませんi)のことども、取り扱い注意の一書です。






















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